手欄《てすり》によりかかって、静かな春雨《はるさめ》のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場《はとば》のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間と覚《おぼ》しいあたりを、親しい人や疎《うと》い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
 若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁《いんねん》もないのに執念《しゅうね》く付きまつわるのだろうと葉子は他人事《ひとごと》のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽた[#「ぽた」に傍点]ぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色《にじいろ》にきらきらと巴《ともえ》を描いて飛び跳《おど》った。
 「……わたしを見捨てるん……」
 葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっ[#「ふっ」に傍点]とあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児《あかご》が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々《ゆうゆう》閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙|一重《ひとえ》の界《さかい》も置かず、たぎり返って渦《うず》巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事《ひとごと》のようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄《
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