眼にはアグネスの寝顔が吸付くように可憐に映った。クララは静かに寝床に近よって、自分の臥《ね》ていた跡に堂母《ドーモ》から持帰った月桂樹の枝を敷いて、その上に聖像を置き、そのまわりを花で飾った。そしてもう一度聖像に祈祷を捧げた。
「御心《みこころ》ならば、主よ、アグネスをも召し給え」
クララは軽くアグネスの額に接吻した。もう思い残す事はなかった。
ためらう事なくクララは部屋を出て、父母の寝室の前の板床《いたゆか》に熱い接吻を残すと、戸を開《あ》けてバルコンに出た。手欄《てすり》から下をすかして見ると、暗《やみ》の中に二人の人影が見えた。「アーメン」という重い声が下から響いた。クララも「アーメン」といって応じながら用意した綱で道路に降り立った。
空も路《みち》も暗かった。三人はポルタ・ヌオバの門番に賂《まいない》して易々《やすやす》と門を出た。門を出るとウムブリヤの平野は真暗に遠く広く眼の前に展《ひら》け亘《わた》った。モンテ・ファルコの山は平野から暗い空に崛起《くっき》しておごそかにこっち[#「こっち」に傍点]を見つめていた。淋しい花嫁は頭巾《ずきん》で深々と顔を隠した二人の男に守られながら、すがりつくようにエホバに祈祷を捧げつつ、星の光を便《たよ》りに山坂を曲りくねって降りて行った。
フランシスとその伴侶《なかま》との礼拝所なるポルチウンクウラの小龕《しょうがん》の灯《ともしび》が遙か下の方に見え始める坂の突角に炬火《たいまつ》を持った四人の教友がクララを待ち受けていた。今まで氷のように冷たく落着いていたクララの心は、瀕死者《ひんししゃ》がこの世に最後の執着を感ずるようにきびしく烈《はげ》しく父母や妹を思った。炬火の光に照らされてクララの眼は未練にももう一度涙でかがやいた。いい知れぬ淋しさがその若い心を襲った。
「私のために祈って下さい」
クララは炬火を持った四人にすすり泣きながら歎願した。四人はクララを中央に置いて黙ったままうずくまった。
平原の平和な夜の沈黙を破って、遙か下のポルチウンクウラからは、新嫁《にいよめ》を迎うべき教友らが、心をこめて歌いつれる合唱の声が、静かにかすか[#「かすか」に傍点]におごそかに聞こえて来た。
[#地から3字上げ](一九一七、八、一五、於|碓氷峠《うすいとうげ》)
底本:「カインの末裔 クララの出家」岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年9月10日第1刷発行
1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行
1990(平成2)年4月15日第35刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集」第三輯、新潮社
1918(大正7)年2月刊
初出:「太陽」1917(大正6)年9月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2001年2月14日公開
2003年8月31日修正
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