ラは自分で知らなかった自分の秘密をその時フランシスによって甫《はじ》めて知った。長い間の不思議な心の迷いをクララは種々《いろいろ》に解きわずらっていたが、それがその時始めて解かれたのだ。クララはフランシスの明察を何んと感謝していいのか、どう詫《わ》びねばならぬかを知らなかった。狂気のような自分の泣き声ばかりがクララの耳にやや暫らくいたましく聞こえた。
 「わが神、わが凡《すべ》て」
 また長い沈黙がつづいた。フランシスはクララの頭に手を置きそえたまま黙祷《もくとう》していた。
 「私の心もおののく。……私はあなたに値しない。あなたは神に行く前に私に寄道した。……さりながら愛によってつまずいた優しい心を神は許し給うだろう。私の罪をもまた許し給うだろう」
 かくいってフランシスはすっと立上った。そして今までとは打って変って神々《こうごう》しい威厳でクララを圧しながら言葉を続けた。
 「神の御名《みな》によりて命ずる。永久《とこしえ》に神の清き愛児《まなご》たるべき処女《おとめ》よ。腰に帯して立て」
 その言葉は今でもクララの耳に焼きついて消えなかった。そしてその時からもう世の常の処女ではなくなっていた。彼女はその時の回想に心を上《うわ》ずらせながら、その時泣いたように激しく泣いていた。
 ふと「クララ」と耳近く囁《ささや》くアグネスの声に驚かされてクララは顔を上げた。空想の中に描かれていたアプスの淋しさとは打って変って、堂内にはひしひしと群集がひしめいていた。祭壇の前に集った百人に余る少女は、棕櫚《しゅろ》の葉の代りに、月桂樹の枝と花束とを高くかざしていた――夕栄《ゆうばえ》の雲が棚引《たなび》いたように。クララの前にはアグネスを従えて白い髯《ひげ》を長く胸に垂れた盛装の僧正《そうじょう》が立っている。クララが顔を上げると彼れは慈悲深げにほほえんだ。
 「嫁《とつ》ぎ行く処女《おとめ》よ。お前の喜びの涙に祝福あれ。この月桂樹は僧正によって祭壇から特にお前に齎《もた》らされたものだ。僧正の好意と共に受けおさめるがいい」
 クララが知らない中《うち》に祭事は進んで、最後の儀式即ち参詣の処女に僧正手ずから月桂樹を渡して、救世主の入城を頌歌《しょうか》する場合になっていたのだ。そしてクララだけが祭壇に来なかったので僧正自らクララの所に花を持って来たのだった。クララが今夜出家するという手筈《てはず》をフランシスから知らされていた僧正は、クララによそながら告別を与えるためにこの破格な処置をしたのだと気が付くと、クララはまた更らに涙のわき返るのをとどめ得なかった。クララの父母は僧正の言葉をフォルテブラッチョ家との縁談と取ったのだろう、笑《え》みかまけながら挨拶の辞儀をした。
 やがて百人の処女の喉《のど》から華々しい頌歌が起った。シオンの山の凱歌《がいか》を千年の後に反響さすような熱と喜びのこもった女声高音が内陣から堂内を震動さして響《ひび》き亘《わた》った。会衆は蠱惑《こわく》されて聞《き》き惚《ほ》れていた。底の底から清められ深められたクララの心は、露ばかりの愛のあらわれにも嵐のように感動した。花の間に顔を伏せて彼女は少女の歌声に揺られながら、無我の祈祷に浸り切った。

       ○

 「クララ……クララ」
 クララは眼をさましていたけれども返事をしなかった。幸に母のいる方には後ろ向けに、アグネスに寄り添って臥《ね》ていたから、そのまま息気《いき》を殺して黙っていた。母は二人ともよく寝たもんだというような事を、母らしい愛情に満ちた言葉でいって、何か衣裳らしいものを大椅子の上にそっくり置くと、忍び足に寝台に近よってしげしげと二人の寝姿を見守った。そして夜着をかけ添えて軽く二つ三つその上をたたいてから静かに部屋を出て行った。
 クララの枕はしぼるように涙に濡れていた。
 無月《むげつ》の春の夜は次第に更《ふ》けた。町の諸門をとじる合図の鐘は二時間も前に鳴ったので、コルソに集って売買に忙がしかった村の人々の声高《こわだか》な騒ぎも聞こえず、軒なみの店ももう仕舞《しま》って寝しずまったらしい。女猫《めねこ》を慕う男猫の思い入ったような啼声《なきごえ》が時折り聞こえる外《ほか》には、クララの部屋の時計の重子《おもり》が静かに下りて歯車をきしらせる音ばかりがした。山の上の春の空気はなごやかに静かに部屋に満ちて、堂母《ドーモ》から二人が持って帰った月桂樹と花束の香を隅々《すみずみ》まで籠《こ》めていた。
 クララは取りすがるように祈りに祈った。眼をあけると間近かにアグネスの眠った顔があった。クララを姉とも親とも慕う無邪気な、素直な、天使のように浄《きよ》らかなアグネス。クララがこの二、三日ややともすると眼に涙をためているのを見て、自分も一緒に涙ぐんでいたアグネス。……そのアグネスの睫毛《まつげ》はいつでも涙で洗ったように美しかった。殊に色白なその頬は寝入ってから健康そうに上気して、その間に形よく盛り上った小鼻は穏やかな呼吸と共に微細に震えていた。「クララの光の髪、アグネスの光の眼」といわれた、無類な潤みを持った童女にしてはどこか哀れな、大きなその眼は見る事が出来なかった。クララは、見つめるほど、骨肉のいとしさがこみ上げて来て、そっと掌《てのひら》で髪から頬を撫《な》でさすった。その手に感ずる暖いなめらかな触感はクララの愛欲を火のようにした。クララは抱きしめて思い存分いとしがってやりたくなって半身を起して乗しかかった。同時にその場合の大事がクララを思いとどまらした。クララは肱《ひじ》をついて半分身を起したままで、アグネスを見やりながらほろほろと泣いた。死んだ一人児《ひとりご》を母が撫でさすりながら泣くように。
 弾条《ぜんまい》のきしむ音と共に時計が鳴り出した。クララは数を数えないでも丁度|夜半《よなか》である事を知っていた。そして涙を拭いもあえず、静かに床からすべり出た。打合せておいた時刻が来たのだ。安息日が過ぎて神聖月曜日が来たのだ。クララは床から下り立つと昨日|堂母《ドーモ》に着て行ったベネチヤの白絹を着ようとした。それは花嫁にふさわしい色だった。しかし見ると大椅子の上に昨夜母の持って来てくれた外《ほか》の衣裳が置いてあった。それはクララが好んで来た藤紫の一揃《ひとそろい》だった。神聖月曜日にも聖《サン》ルフィノ寺院で式があるから、昨日のものとは違った服装をさせようという母の心尽しがすぐ知れた。クララは嬉しく有難く思いながらそれを着た。そして着ながらもしこれが両親の許しを得た結婚であったならばと思った。父は恐らくあすこの椅子にかけて微笑しながら自分を見守るだろう。母と女中とは前に立ち後ろに立ちして化粧を手伝う事だろう。そう思いながらクララは音を立てないように用心して、かけにくい背中のボタンをかけたりした。そしていつもの習慣通りに小箪笥《こだんす》の引出しから頸飾《くびかざり》と指輪との入れてある小箱を取出したが、それはこの際になって何んの用もないものだと気が付いた。クララはふとその宝玉に未練を覚えた。その一つ一つにはそれぞれの思出がつきまつわっていた。クララは小箱の蓋《ふた》に軽い接吻を与えて元の通りにしまいこんだ。淋しい花嫁の身じたく[#「じたく」に傍点]は静かな夜の中に淋しく終った。その中《うち》に心は段々落着いて力を得て行った。こんなに泣かれてはいよいよ家を逃れ出る時にはどうしたらいいだろうと思った床の中の心配は無用になった。沈んではいるがしゃん[#「しゃん」に傍点]と張切った心持ちになって、クララは部屋の隅の聖像の前に跪《ひざまず》いて燭火《あかり》を捧げた。そして静かに身の来《こ》し方《かた》を返り見た。
 幼い時からクララにはいい現わし得ない不満足が心の底にあった。いらいらした気分はよく髪の結い方、衣服の着せ方に小言をいわせた。さんざん小言をいってから独りになると何んともいえない淋しさに襲われて、部屋の隅でただ一人半日も泣いていた記憶も甦《よみがえ》った。クララはそんな時には大好きな母の顔さえ見る事を嫌った。ましてや父の顔は野獣のように見えた。いまに誰れか来て私を助けてくれる。堂母《ドーモ》の壁画にあるような天国に連れて行ってくれるからいいとそう思った。色々な宗教画がある度に自分の行きたい所は何所《どこ》だろうと思いながら注意した。その中《うち》にクララの心の中には二つの世界が考えられるようになりだした。一つはアッシジの市民が、僧侶をさえこめて、上から下まで生活している世界だ。一つは市民らが信仰しているにせよ、いぬにせよ、敬意を捧げている基督《キリスト》及び諸聖徒の世界だ。クララは第一の世界に生い立って栄耀栄華《えいようえいが》を極むべき身分にあった。その世界に何故|渇仰《かつごう》の眼を向け出したか、クララ自身も分らなかったが、当時ペルジヤの町に対して勝利を得て独立と繁盛との誇りに賑やか立ったアッシジの辻《つじ》を、豪奢《ごうしゃ》の市民に立ち交りながら、「平和を求めよ而《しか》して永遠の平和あれ」と叫んで歩く名もない乞食の姿を彼女は何んとなく考え深く眺めないではいられなかった。やがて死んだのか宗旨|代《が》えをしたのか、その乞食は影を見せなくなって、市民は誰れ憚《はばか》らず思うさまの生活に耽《ふけ》っていたが、クララはどうしても父や父の友達などの送る生活に従って活《い》きようと思う心地《ここち》はなかった。その頃にフランシス――この間まで第一の生活の先頭に立って雄々しくも第二の世界に盾《たて》をついたフランシス――が百姓の服を着て、子供らに狂人と罵《ののし》られながらも、聖ダミヤノ寺院の再建勧進《さいこんかんじん》にアッシジの街に現われ出した。クララは人知れずこの乞食僧の挙動を注意していた。その頃にモントルソリ家との婚談も持上って、クララは度々自分の窓の下で夜おそく歌われる夜曲を聞くようになった。それはクララの心を躍《おど》らしときめかした。同時にクララは何物よりもこの不思議な力を恐れた。
 その時分クララは著者の知れないある古い書物の中に下のような文句を見出した。
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「肉に溺《おぼ》れんとするものよ。肉は霊への誘惑なるを知らざるや。心の眼鈍きものはまず肉によりて愛に目ざむるなり。愛に目ざめてそを哺《はぐく》むものは霊に至らざればやまざるを知らざるや。されど心の眼さときものは肉に倚《よ》らずして直《ただち》に愛の隠るる所を知るなり。聖処女の肉によらずして救主《すくいぬし》を孕《はら》み給いし如《ごと》く、汝《なんじ》ら心の眼さときものは聖霊によりて諸善の胎《はら》たるべし。肉の世の広きに恐るる事|勿《なか》れ。一度恐れざれば汝らは神の恩恵によりて心の眼さとく生れたるものなることを覚《さと》るべし」
[#ここで字下げ終わり]
 クララは幾度もそこを読み返した。彼女の迷いはこの珍らしくもない句によって不思議に晴れて行った。そしてフランシスに対して好意を持ち出した。フランシスを弁護する人がありでもすると、嫉妬《しっと》を感じないではいられないほど好意を持ち出した。その時からクララは凡ての縁談を顧《かえり》みなくなった。フォルテブラッチョ家との婚約を父が承諾した時でも、クララは一応辞退しただけで、跡は成行きにまかせていた。彼女の心はそんな事には止《とどま》ってはいなかった。唯《ただ》心を籠《こ》めて浄《きよ》い心身を基督《キリスト》に献じる機《おり》ばかりを窺《うかが》っていたのだ。その中《うち》に十六歳の秋が来て、フランシスの前に懺悔をしてから、彼女の心は全く肉の世界から逃れ出る事が出来た。それからの一年半の長い長い天との婚約の試練も今夜で果てたのだ。これからは一人の主に身も心も献げ得る嬉しい境涯が自分を待っているのだ。
 クララの顔はほてって輝いた。聖像の前に最後の祈を捧げると、いそいそとして立上った。そして鏡を手に取って近々と自分の顔を写して見た。それが自分の肉との最後の別れだった。彼女の
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