眼にはアグネスの寝顔が吸付くように可憐に映った。クララは静かに寝床に近よって、自分の臥《ね》ていた跡に堂母《ドーモ》から持帰った月桂樹の枝を敷いて、その上に聖像を置き、そのまわりを花で飾った。そしてもう一度聖像に祈祷を捧げた。
 「御心《みこころ》ならば、主よ、アグネスをも召し給え」
 クララは軽くアグネスの額に接吻した。もう思い残す事はなかった。
 ためらう事なくクララは部屋を出て、父母の寝室の前の板床《いたゆか》に熱い接吻を残すと、戸を開《あ》けてバルコンに出た。手欄《てすり》から下をすかして見ると、暗《やみ》の中に二人の人影が見えた。「アーメン」という重い声が下から響いた。クララも「アーメン」といって応じながら用意した綱で道路に降り立った。
 空も路《みち》も暗かった。三人はポルタ・ヌオバの門番に賂《まいない》して易々《やすやす》と門を出た。門を出るとウムブリヤの平野は真暗に遠く広く眼の前に展《ひら》け亘《わた》った。モンテ・ファルコの山は平野から暗い空に崛起《くっき》しておごそかにこっち[#「こっち」に傍点]を見つめていた。淋しい花嫁は頭巾《ずきん》で深々と顔を隠した二人の男に
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