《ののし》られながらも、聖ダミヤノ寺院の再建勧進《さいこんかんじん》にアッシジの街に現われ出した。クララは人知れずこの乞食僧の挙動を注意していた。その頃にモントルソリ家との婚談も持上って、クララは度々自分の窓の下で夜おそく歌われる夜曲を聞くようになった。それはクララの心を躍《おど》らしときめかした。同時にクララは何物よりもこの不思議な力を恐れた。
その時分クララは著者の知れないある古い書物の中に下のような文句を見出した。
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「肉に溺《おぼ》れんとするものよ。肉は霊への誘惑なるを知らざるや。心の眼鈍きものはまず肉によりて愛に目ざむるなり。愛に目ざめてそを哺《はぐく》むものは霊に至らざればやまざるを知らざるや。されど心の眼さときものは肉に倚《よ》らずして直《ただち》に愛の隠るる所を知るなり。聖処女の肉によらずして救主《すくいぬし》を孕《はら》み給いし如《ごと》く、汝《なんじ》ら心の眼さときものは聖霊によりて諸善の胎《はら》たるべし。肉の世の広きに恐るる事|勿《なか》れ。一度恐れざれば汝らは神の恩恵によりて心の眼さとく生れたるものなることを覚《さと》るべし」
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クララは幾度もそこを読み返した。彼女の迷いはこの珍らしくもない句によって不思議に晴れて行った。そしてフランシスに対して好意を持ち出した。フランシスを弁護する人がありでもすると、嫉妬《しっと》を感じないではいられないほど好意を持ち出した。その時からクララは凡ての縁談を顧《かえり》みなくなった。フォルテブラッチョ家との婚約を父が承諾した時でも、クララは一応辞退しただけで、跡は成行きにまかせていた。彼女の心はそんな事には止《とどま》ってはいなかった。唯《ただ》心を籠《こ》めて浄《きよ》い心身を基督《キリスト》に献じる機《おり》ばかりを窺《うかが》っていたのだ。その中《うち》に十六歳の秋が来て、フランシスの前に懺悔をしてから、彼女の心は全く肉の世界から逃れ出る事が出来た。それからの一年半の長い長い天との婚約の試練も今夜で果てたのだ。これからは一人の主に身も心も献げ得る嬉しい境涯が自分を待っているのだ。
クララの顔はほてって輝いた。聖像の前に最後の祈を捧げると、いそいそとして立上った。そして鏡を手に取って近々と自分の顔を写して見た。それが自分の肉との最後の別れだった。彼女の
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