いてであった。一反歩二円二十銭の畑代はこの地方にない高相場であるのに、どんな凶年でも割引をしないために、小作は一人として借金をしていないものはない。金では取れないと見ると帳場は立毛《たちけ》の中《うち》に押収してしまう。従って市街地の商人からは眼の飛び出るような上前《うわまえ》をはねられて食代《くいしろ》を買わねばならぬ。だから今度地主が来たら一同で是非とも小作料の値下を要求するのだ。笠井はその総代になっているのだが一人では心細いから仁右衛門も出て力になってくれというのであった。
「白痴《こけ》なことこくなてえば。二両二貫が何|高値《たか》いべ。汝《われ》たちが骨節《ほねっぷし》は稼《かせ》ぐようには造ってねえのか。親方には半文の借りもした覚えはねえからな、俺らその公事《くじ》には乗んねえだ。汝《われ》先ず親方にべなって見べし。ここのがよりも欲にかかるべえに。……芸もねえ事《こん》に可愛《めんこ》くもねえ面《つら》つんだすなてば」
仁右衛門はまた笠井のてかてかした顔に唾をはきかけたい衝動にさいなまれたが、我慢してそれを板の間にはき捨てた。
「そうまあ一概にはいうもんでないぞい」
「一概にいったが何条《なじょう》悪いだ。去《い》ね。去ねべし」
「そういえど広岡さん……」
「汝《わり》ゃ拳固《げんこ》こと喰らいていがか」
女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々|荒《あら》らかになった。
執着の強い笠井も立《たた》なければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒った風《ふう》も見せずに坂を下りて行った。道の二股《ふたまた》になった所で左に行こうとすると、闇をすかしていた仁右衛門は吼《ほ》えるように「右さ行くだ」と厳命した。笠井はそれにも背《そむ》かなかった。左の道を通って女が通って来るのだ。
仁右衛門はまた独りになって闇の中にうずくまった。彼れは憤りにぶるぶる震えていた。生憎《あいにく》女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋に荒《あば》れこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、藪道《やぶみち》をぐんぐん歩いて行った。ふとある疎藪《ぼさ》の所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけはいを嗅《か》ぎ知った。彼れははた[#「はた」に傍点]と立停ってその奥をすかして見た。しんとした夜の静かさの中で悪謔《からか》うような淫《みだ》らな女の潜み笑いが聞こえた。邪魔の入ったのを気取《けど》って女はそこに隠れていたのだ。嗅ぎ慣れた女の臭《にお》いが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。
「四つ足めが」
叫びと共に彼れは疎藪《ぼさ》の中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋《わらじ》の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に駈《か》られて、満身の重みをそれに托《たく》した。
「痛い」
それが聞きたかったのだ。彼れの肉体は一度に油をそそぎかけられて、そそり立つ血のきおいに眼がくるめいた。彼れはいきなり女に飛びかかって、所きらわず殴ったり足蹴《あしげ》にしたりした。女は痛いといいつづけながらも彼れにからまりついた。そして噛《か》みついた。彼れはとうとう女を抱きすくめて道路に出た。女は彼れの顔に鋭く延びた爪をたてて逃れようとした。二人はいがみ合う犬のように組み合って倒れた。倒れながら争った。彼れはとうとう女を取逃がした。はね起きて追いにかかると一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついて来た。二人は互に情に堪えかねてまた殴ったり引掻《ひっか》いたりした。彼れは女のたぶさ[#「たぶさ」に傍点]を掴《つか》んで道の上をずるずる引張って行った。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となってぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼れは闇の中に突っ立ちながら焼くような昂奮《こうふん》のためによろめいた。
(四)
春の天気の順当であったのに反して、その年は六月の初めから寒気と淫雨《いんう》とが北海道を襲って来た。旱魃《かんばつ》に饑饉《ききん》なしといい慣わしたのは水田の多い内地の事で、畑ばかりのK村なぞは雨の多い方はまだ仕やすいとしたものだが、その年の長雨には溜息を漏《もら》さない農民はなかった。
森も畑も見渡すかぎり真青になって、掘立小屋《ほったてごや》ばかりが色を変えずに自然をよごしていた。時雨《しぐれ》のような寒い雨が閉ざし切った鈍色《にびいろ》の雲から止途《とめど》なく降りそそいだ。低味《ひくみ》の畦道《あぜみち》に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から真菰《まこも》が長く延びて出た。蝌斗《おたまじゃくし》が畑の中を泳ぎ廻ったりした。郭公《ほととぎす》が森の中で淋しく啼《な》いた。小豆《あずき》を板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが小休《おや》むと湿気を含んだ風が木でも草でも萎《しぼ》ましそうに寒く吹いた。
ある日農場主が函館《はこだて》から来て集会所で寄合うという知らせが組長から廻って来た。仁右衛門はそんな事には頓着《とんじゃく》なく朝から馬力《ばりき》をひいて市街地に出た。運送店の前にはもう二台の馬力があって、脚をつまだてるようにしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立つ輓馬《ひきうま》の鬣《たてがみ》は、幾本かの鞭《むち》を下げたように雨によれて、その先きから水滴が絶えず落ちていた。馬の背からは水蒸気が立昇った。戸を開けて中に這入《はい》ると馬車追いを内職にする若い農夫が三人土間に焚火《たきび》をしてあたっていた。馬車追いをする位の農夫は農夫の中でも冒険的な気の荒い手合だった。彼らは顔にあたる焚火のほてりを手や足を挙げて防ぎながら、長雨につけこんで村に這入って来た博徒《ばくと》の群の噂をしていた。捲《ま》き上《あ》げようとして這入り込みながら散々手を焼いて駅亭から追い立てられているような事もいった。
「お前も一番乗って儲《もう》かれや」
とその中の一人は仁右衛門をけしかけた。店の中はどんよりと暗く湿っていた。仁右衛門は暗い顔をして唾《つば》をはき捨てながら、焚火の座に割り込んで黙っていた。ぴしゃぴしゃと気疎《けうと》い草鞋《わらじ》の音を立てて、往来を通る者がたまさかにあるばかりで、この季節の賑《にぎわ》い立《だ》った様子は何処《どこ》にも見られなかった。帳場の若いものは筆を持った手を頬杖《ほおづえ》にして居眠っていた。こうして彼らは荷の来るのをぼんやりして二時間あまりも待ち暮した。聞くに堪えないような若者どもの馬鹿話も自然と陰気な気分に押えつけられて、動《やや》ともすると、沈黙と欠伸《あくび》が拡がった。
「一はたりはたらずに」
突然仁右衛門がそういって一座を見廻した。彼れはその珍らしい無邪気な微笑をほほえんでいた。一同は彼れのにこやかな顔を見ると、吸い寄せられるようになって、いう事をきかないではいられなかった。蓆《むしろ》が持ち出された。四人は車座《くるまざ》になった。一人は気軽く若い者の机の上から湯呑茶碗を持って来た。もう一人の男の腹がけの中からは骰子《さい》が二つ取出された。
店の若い者が眼をさまして見ると、彼らは昂奮《こうふん》した声を押つぶしながら、無気《むき》になって勝負に耽《ふけ》っていた。若い者は一寸《ちょっと》誘惑を感じたが気を取直して、
「困るでねえか、そうした事|店頭《みせさき》でおっ広《ぴろ》げて」
というと、
「困ったら積荷こと探して来《こ》う」
と仁右衛門は取り合わなかった。
昼になっても荷の回送はなかった。仁右衛門は自分からいい出しながら、面白くない勝負ばかりしていた。何方《どっち》に変るか自分でも分らないような気分が驀地《まっしぐら》に悪い方に傾いて来た。気を腐らせれば腐らすほど彼れのやま[#「やま」に傍点]は外れてしまった。彼れはくさくさしてふいと座を立った。相手が何とかいうのを振向きもせずに店を出た。雨は小休《おやみ》なく降り続けていた。昼餉《ひるげ》の煙が重く地面の上を這《は》っていた。
彼れはむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]しながら馬力を引ぱって小屋の方に帰って行った。だらしなく降りつづける雨に草木も土もふやけ切って、空までがぽとり[#「ぽとり」に傍点]と地面の上に落ちて来そうにだらけていた。面白くない勝負をして焦立《いらだ》った仁右衛門の腹の中とは全く裏合せな煮《に》え切《き》らない景色だった。彼れは何か思い切った事をしてでも胸をすかせたく思った。丁度自分の畑の所まで来ると佐藤の年嵩《としかさ》の子供が三人学校の帰途《かえり》と見えて、荷物を斜《はす》に背中に背負って、頭からぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]濡れながら、近路《ちかみち》するために畑の中を歩いていた。それを見ると仁右衛門は「待て」といって呼びとめた。振向いた子供たちは「まだか」の立っているのを見ると三人とも恐ろしさに顔の色を変えてしまった。殴りつけられる時するように腕をまげて目八分の所にやって、逃げ出す事もし得ないでいた。
「童子連《わらしづれ》は何条《なじょう》いうて他人《ひと》の畑さ踏み込んだ。百姓の餓鬼《がき》だに畑のう大事がる道知んねえだな。来《こ》う」
仁王立《におうだ》ちになって睨《にら》みすえながら彼れは怒鳴《どな》った。子供たちはもうおびえるように泣き出しながら恐《お》ず恐《お》ず仁右衛門の所に歩いて来た。待ちかまえた仁右衛門の鉄拳はいきなり十二ほどになる長女の痩《や》せた頬《ほお》をゆがむほどたたきつけた。三人の子供は一度に痛みを感じたように声を挙げてわめき出した。仁右衛門は長幼の容捨《ようしゃ》なく手あたり次第に殴りつけた。
小屋に帰ると妻は蓆の上にペッたんこに坐って馬にやる藁《わら》をざくりざくり切っていた。赤坊はいんちこ[#「いんちこ」に傍点]の中で章魚《たこ》のような頭を襤褸《ぼろ》から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが漲《みなぎ》って、運送店の店先に較《くら》べては何から何まで便所のように穢《きたな》かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐまた外に出た。雨は膚《はだ》まで沁《し》み徹《とお》ってぞくぞく寒かった。彼れの癇癪《かんしゃく》は更《さ》らにつのった。彼れはすたすたと佐藤の小屋に出かけた。が、ふと集会所に行ってる事に気がつくとその足ですぐ神社をさして急いだ。
集会所には朝の中《うち》から五十人近い小作者が集って場主の来るのを待っていたが、昼過ぎまで待ちぼけを喰《く》わされてしまった。場主はやがて帳場を伴《とも》につれて厚い外套《がいとう》を着てやって来た。上座《かみざ》に坐ると勿体《もったい》らしく神社の方を向いて柏手《かしわで》を打って黙拝をしてから、居合わせてる者らには半分も解らないような事をしたり[#「したり」に傍点]顔にいい聞かした。小作者らはけげんな顔をしながらも、場主の言葉が途切れると尤《もっと》もらしくうなずいた。やがて小作者らの要求が笠井によって提出せらるべき順番が来た。彼れは先ず親方は親で小作は子だと説き出して、小作者側の要求をかなり強くいい張った跡で、それはしかし無理な御願いだとか、物の解らない自分たちが考える事だからだとか、そんな事は先ず後廻しでもいい事だとか、自分のいい出した事を自分で打壊すような添言葉《そえことば》を付加えるのを忘れなかった。仁右衛門はちょうどそこに行き合せた。彼れは入口の羽目板《はめいた》に身をよせてじっと聞いていた。
「こうまあ色々とお願いしたじゃからは、お互も心をしめて帳場さんにも迷惑をかけぬだけにはせずばなあ(ここで彼れは一同を見渡した様子だった)。『万国心をあわせてな』と天理教のお歌様にもあ
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング