、仁右衛門の小屋は前の小作から十五円で買ってあるのだから来年中に償還すべき事、作跡《さくあと》は馬耕《うまおこし》して置くべき事、亜麻は貸付地積の五分の一以上作ってはならぬ事、博奕《ばくち》をしてはならぬ事、隣保相助けねばならぬ事、豊作にも小作料は割増しをせぬ代りどんな凶作でも割引は禁ずる事、場主に直訴《じきそ》がましい事をしてはならぬ事、掠奪《りゃくだつ》農業をしてはならぬ事、それから云々、それから云々。
仁右衛門はいわれる事がよく飲み込めはしなかったが、腹の中では糞《くそ》を喰《く》らえと思いながら、今まで働いていた畑を気にして入口から眺めていた。
「お前は馬を持ってるくせに何んだって馬耕をしねえだ。幾日《いくんち》もなく雪になるだに」
帳場は抽象論から実際論に切込んで行った。
「馬はあるが、プラオがねえだ」
仁右衛門は鼻の先きであしらった。
「借りればいいでねえか」
「銭子《ぜにこ》がねえかんな」
会話はぷつんと途切《とぎ》れてしまった。帳場は二度の会見でこの野蛮人をどう取扱わねばならぬかを飲み込んだと思った。面と向って埒《らち》のあく奴ではない。うっかり女房にでも愛想を見せれば大事《おおごと》になる。
「まあ辛抱してやるがいい。ここの親方は函館《はこだて》の金持《まるも》ちで物の解《わか》った人だかんな」
そういって小屋を出て行った。仁右衛門も戸外に出て帳場の元気そうな後姿を見送った。川森は財布から五十銭銀貨を出してそれを妻の手に渡した。何しろ帳場につけとどけをして置かないと万事に損が行くから今夜にも酒を買って挨拶に行くがいいし、プラオなら自分の所のものを借してやるといっていた。仁右衛門は川森の言葉を聞きながら帳場の姿を見守っていたが、やがてそれが佐藤の小屋に消えると、突然馬鹿らしいほど深い嫉妬《しっと》が頭を襲って来た。彼れはかっと喉《のど》をからして痰《たん》を地べたにいやというほどはきつけた。
夫婦きりになると二人はまた別々になってせっせと働き出した。日が傾きはじめると寒さは一入《ひとしお》に募って来た。汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの真闇《まっくら》な頭の中の一段高い所とも覚《おぼ》しいあたりに五十銭銀貨がまんまるく光って如何《どう》しても離れなかった。彼れは鍬を動かしながら眉をしかめてそれを払い落そうと試みた。しかしいくら試みても光った銀貨が落ちないのを知ると白痴《ばか》のようににったり[#「にったり」に傍点]と独笑《ひとりわら》いを漏《もら》していた。
昆布岳《こんぶだけ》の一角には夕方になるとまた一叢《ひとむら》の雲が湧いて、それを目がけて日が沈んで行った。
仁右衛門は自分の耕した畑の広さを一わたり満足そうに見やって小屋に帰った。手ばしこく鍬を洗い、馬糧を作った。そして鉢巻《はちまき》の下ににじんだ汗を袖口《そでぐち》で拭《ぬぐ》って、炊事にかかった妻に先刻の五十銭銀貨を求めた。妻がそれをわたすまでには二、三度|横面《よこつら》をなぐられねばならなかった。仁右衛門はやがてぶらり[#「ぶらり」に傍点]と小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹がけの丼《どんぶり》に入れて見たり、出して見たり、親指で空に弾《はじ》き上げたりしながら市街地の方に出懸けて行った。
九時――九時といえば農場では夜更《よふ》けだ――を過ぎてから仁右衛門はいい酒機嫌で突然佐藤の戸口に現われた。佐藤の妻も晩酌に酔いしれていた。与十と鼎座《ていざ》になって三人は囲炉裡をかこんでまた飲みながら打解けた馬鹿話をした。仁右衛門が自分の小屋に着いた時には十一時を過ぎていた。妻は燃えかすれる囲炉裡火に背を向けて、綿のはみ出た蒲団《ふとん》を柏《かしわ》に着てぐっすり寝込んでいた。仁右衛門は悪戯者《いたずらもの》らしくよろけながら近寄ってわっといって乗りかかるように妻を抱きすくめた。驚いて眼を覚した妻はしかし笑いもしなかった。騒ぎに赤坊が眼をさました。妻が抱き上げようとすると、仁右衛門は遮《さえぎ》りとめて妻を横抱きに抱きすくめてしまった。
「そうれまんだ肝《きも》べ焼けるか。こう可愛《めんこ》がられても肝べ焼けるか。可愛《めんこ》い獣物《けだもの》ぞい汝《われ》は。見ずに。今《いんま》にな俺《お》ら汝に絹の衣装べ着せてこすぞ。帳場の和郎《わろ》(彼れは所きらわず唾《つば》をはいた)が寝言べこく暇に、俺ら親方と膝つきあわして話して見せるかんな。白痴奴《こけめ》。俺らが事誰れ知るもんで。汝《わり》ゃ可愛いぞ。心から可愛いぞ。宜《よ》し。宜し。汝ゃこれ嫌いでなかんべさ」
といいながら懐から折木《へぎ》に包んだ大福を取出して、その一つをぐちゃぐちゃに押しつぶして息気《いき》のつまるほど妻の口にあてがっていた。
(三)
から風の幾日も吹きぬいた挙句《あげく》に雲が青空をかき乱しはじめた。霙《みぞれ》と日の光とが追いつ追われつして、やがて何所《どこ》からともなく雪が降るようになった。仁右衛門の畑はそうなるまでに一部分しか耡起《すきおこ》されなかったけれども、それでも秋播《あきまき》小麦を播《ま》きつけるだけの地積は出来た。妻の勤労のお蔭《かげ》で一冬分《ひとふゆぶん》の燃料にも差支《さしつかえ》ない準備は出来た。唯《ただ》困るのは食料だった。馬の背に積んで来ただけでは幾日分の足《た》しにもならなかった。仁右衛門はある日馬を市街地に引いて行って売り飛ばした。そして麦と粟《あわ》と大豆とをかなり高い相場で買って帰らねばならなかった。馬がないので馬車追いにもなれず、彼れは居食《いぐ》いをして雪が少し硬くなるまでぼんやりと過していた。
根雪《ねゆき》になると彼れは妻子を残して木樵《きこり》に出かけた。マッカリヌプリの麓《ふもと》の払下《はらいさげ》官林に入りこんで彼れは骨身を惜まず働いた。雪が解けかかると彼れは岩内《いわない》に出て鰊場《にしんば》稼《かせ》ぎをした。そして山の雪が解けてしまう頃に、彼れは雪焼けと潮焼けで真黒になって帰って来た。彼れの懐は十分重かった。仁右衛門は農場に帰るとすぐ逞《たくま》しい一頭の馬と、プラオと、ハーローと、必要な種子《たね》を買い調えた。彼れは毎日毎日小屋の前に仁王立《におうだち》になって、五ヶ月間積り重なった雪の解けたために膿《う》み放題に膿んだ畑から、恵深い日の光に照らされて水蒸気の濛々《もうもう》と立上る様を待ち遠しげに眺めやった。マッカリヌプリは毎日紫色に暖かく霞《かす》んだ。林の中の雪の叢消《むらぎ》えの間には福寿草《ふくじゅそう》の茎が先ず緑をつけた。つぐみ[#「つぐみ」に傍点]としじゅうから[#「しじゅうから」に傍点]とが枯枝をわたってしめやかなささ啼《な》きを伝えはじめた。腐るべきものは木の葉といわず小屋といわず存分に腐っていた。
仁右衛門は眼路《めじ》のかぎりに見える小作小屋の幾軒かを眺めやって糞《くそ》でも喰《くら》えと思った。未来の夢がはっきりと頭に浮んだ。三年|経《た》った後には彼れは農場一の大小作《おおこさく》だった。五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。その時彼れは三十七だった。帽子を被って二重マントを着た、護謨《ゴム》長靴ばきの彼れの姿が、自分ながら小恥《こはずか》しいように想像された。
とうとう播種時《たねまきどき》が来た。山火事で焼けた熊笹《くまざさ》の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所《どこ》からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋《ごけや》からは夜ごとに三味線の遠音《とおね》が響くようになった。
仁右衛門は逞《たくま》しい馬に、磨《と》ぎすましたプラオをつけて、畑におりたった。耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。
凡《すべ》てが順当に行った。播いた種は伸《のび》をするようにずんずん生い育った。仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言目には喧嘩面《けんかづら》を見せたが六尺ゆたかの彼れに楯《たて》つくものは一人もなかった。佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れ憚《はばか》った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名《あだな》していたのだ。
時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々の噂《うわさ》に上るようになった。
一日働き暮すとさすが労働に慣れ切った農民たちも、眼の廻るようなこの期節の忙しさに疲れ果てて、夕飯もそこそこに寝込んでしまったが、仁右衛門ばかりは日が入っても手が痒《かゆ》くてしようがなかった。彼れは星の光をたよりに野獣のように畑の中で働き廻わった。夕飯は囲炉裡の火の光でそこそこにしたためた。そうしてはぶらり[#「ぶらり」に傍点]と小屋を出た。そして農場の鎮守《ちんじゅ》の社の傍の小作人集会所で女と会った。
鎮守は小高い密樹林の中にあった。ある晩仁右衛門はそこで女を待ち合わしていた。風も吹かず雨も降らず、音のない夜だった。女の来ようは思いの外《ほか》早い事も腹の立つほどおそい事もあった。仁右衛門はだだっ広い建物の入口の所で膝《ひざ》をだきながら耳をそばだてていた。
枝に残った枯葉が若芽にせきたてられて、時々かさっと地に落ちた。天鵞絨《ビロード》のように滑かな空気は動かないままに彼れをいたわるように押包んだ。荒くれた彼れの神経もそれを感じない訳には行かなかった。物なつかしいようななごやか[#「なごやか」に傍点]な心が彼れの胸にも湧いて来た。彼れは闇の中で不思議な幻覚に陥りながら淡くほほえんだ。
足音が聞こえた。彼れの神経は一時に叢立《むらだ》った。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。
「誰れだ汝《わり》ゃ」
低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒りに震えていた。
「お主こそ誰れだと思うたら広岡さんじゃな。何んしに今時こないな所にいるのぞい」
仁右衛門は声の主が笠井の四国猿奴《しこくざるめ》だと知るとかっ[#「かっ」に傍点]となった。笠井は農場一の物識《ものし》りで金持《まるもち》だ。それだけで癇癪《かんしゃく》の種には十分だ。彼れはいきなり笠井に飛びかかって胸倉《むなぐら》をひっつかんだ。かーっ[#「かーっ」に傍点]といって出した唾《つば》を危くその面《かお》に吐きつけようとした。
この頃浮浪人が出て毎晩集会所に集って焚火《たきび》なぞをするから用心が悪い、と人々がいうので神社の世話役をしていた笠井は、おどかしつけるつもりで見廻りに来たのだった。彼れは固《もと》より樫《かし》の棒位の身じたくはしていたが、相手が「まだか」では口もきけないほど縮んでしまった。
「汝《わり》ゃ俺《お》らが媾曳《あいびき》の邪魔べこく気だな、俺らがする事に汝《われ》が手だしはいんねえだ。首ねっこべひんぬかれんな」
彼れの言葉はせき上る息気《いき》の間に押しひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]られてがらがら[#「がらがら」に傍点]震えていた。
「そりゃ邪推じゃがなお主《ぬし》」
と笠井は口早にそこに来合せた仔細《しさい》と、丁度いい機会だから折入って頼む事がある旨をいいだした。仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾《しきい》に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとん[#「きょとん」に傍点]とさせて火傷《やけど》の方の半面を平手で撫《な》でまわしているのが想像された。そしてやがて腰を下《おろ》して、今までの慌《あわ》てかたにも似ず悠々《ゆうゆう》と煙草入《たばこいれ》を出してマッチを擦《す》った。折入って頼むといったのは小作一同の地主に対する苦情に就
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