なって、彼れがこういい出すと、帳場は呆《あき》れたように彼れの顔を見詰めた、――こいつは馬鹿な面《つら》をしているくせに油断のならない横紙破りだと思いながら。そして事務所では金の借貸は一切しないから縁者になる川森からでも借りるがいいし、今夜は何しろ其所《そこ》に行って泊めてもらえと注意した。仁右衛門はもう向腹《むかっぱら》を立ててしまっていた。黙りこくって出て行こうとすると、そこに居合わせた男が一緒に行ってやるから待てととめた。そういわれて見ると彼れは自分の小屋が何所《どこ》にあるのかを知らなかった。
 「それじゃ帳場さん何分|宜《よろ》しゅう頼むがに、塩梅《あんばい》よう親方の方にもいうてな。広岡さん、それじゃ行くべえかの。何とまあ孩児《やや》の痛ましくさかぶぞい。じゃまあおやすみ」
 彼れは器用に小腰をかがめて古い手提鞄《てさげかばん》と帽子とを取上げた。裾《すそ》をからげて砲兵の古靴《ふるぐつ》をはいている様子は小作人というよりも雑穀屋の鞘取《さやと》りだった。
 戸を開けて外に出ると事務所のボンボン時計が六時を打った。びゅうびゅうと風は吹き募《つの》っていた。赤坊の泣くのに困《こう》じ果てて妻はぽつりと淋しそうに玉蜀黍殻《とうきびがら》の雪囲いの影に立っていた。
 足場が悪いから気を付けろといいながら彼《か》の男は先きに立って国道から畦道《あぜみち》に這入《はい》って行った。
 大濤《おおなみ》のようなうねりを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼として拡《ひろ》がっていた。眼を遮《さえぎ》るものは葉を落した防風林の細長い木立ちだけだった。ぎらぎらと瞬《またた》く無数の星は空の地《じ》を殊更《ことさ》ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。
 七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。縊《くび》り殺されそうな泣き声が反響もなく風に吹きちぎられて遠く流れて行った。
 やがて畦道《あぜみち》が二つになる所で笠井は立停った。
 「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようがの。な」
 仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き添えて笠井の言葉を聞き漏らすまいとした。それほど寒い風は激しい音で募っていた。笠井はくどくどとそこに行き着く注意を繰返して、しまいに金が要《い》るなら川森の保証で少し位は融通すると付加えるのを忘れなかった。しかし仁右衛門は小屋の所在が知れると跡は聞いていなかった。餓えと寒さがひしひしと答え出してがたがた身をふるわしながら、挨拶一つせずにさっさと別れて歩き出した。
 玉蜀黍殻《とうきびがら》といたどり[#「いたどり」に傍点]の茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりにかしいで、海月《くらげ》のような低い勾配《こうばい》の小山の半腹に立っていた。物の饐《す》えた香と積肥《つみごえ》の香が擅《ほしいまま》にただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも知れないような気味悪さがあった。赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に卸《おろ》す音がした。痩馬は荷が軽るくなると鬱積《うっせき》した怒りを一時にぶちまけるように嘶《いなな》いた。遙かの遠くでそれに応《こた》えた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。
 夫婦はかじかんだ手で荷物を提《さ》げながら小屋に這入った。永く火の気は絶えていても、吹きさらしから這入るとさすがに気持ちよく暖《あたたか》かった。二人は真暗な中を手さぐりであり合せの古蓆《ふるむしろ》や藁《わら》をよせ集めてどっかと腰を据《す》えた。妻は大きな溜息をして背の荷と一緒に赤坊を卸して胸に抱き取った。乳房をあてがって見たが乳は枯れていた。赤坊は堅くなりかかった歯齦《はぐき》でいやというほどそれを噛《か》んだ。そして泣き募った。
 「腐孩子《くされにが》! 乳首《たたら》食いちぎるに」
 妻は慳貪《けんどん》にこういって、懐《ふところ》から塩煎餅《しおせんべい》を三枚出して、ぽりぽりと噛みくだいては赤坊の口にあてがった。
 「俺《お》らがにも越《く》せ」
 いきなり仁右衛門が猿臂《えんぴ》を延ばして残りを奪い取ろうとした。二人は黙ったままで本気に争った。食べるものといっては三枚の煎餅しかないのだから。
 「白痴《たわけ》」
 吐き出すように良人がこういった時勝負はきまっていた。妻は争い負けて大部分を掠奪《りゃくだつ》されてしまった。二人はまた押黙って闇の中で足《た》しない食物を貪《むさぼ》り喰った。しかしそれは結局食欲をそそる媒介《なかだち》になるばかりだった。二人は喰い終ってから幾度も固唾《かたず》を飲んだが火種のない所では南瓜《かぼちゃ》を煮る事も出来なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時《いつ》の間にか寝入っていた。
 居鎮《いしず》まって見ると隙間《すきま》もる風は刃《やいば》のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝《だきね》をしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労は凡《すべ》てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。
 遠慮会釈もなく迅風《はやて》は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆《うるし》のような闇が大河の如《ごと》く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓《ぜってん》の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこに甦《よみがえ》った。
 こうして仁右衛門夫婦は、何処《どこ》からともなくK村に現われ出て、松川農場の小作人になった。

   (二)

 仁右衛門の小屋から一町ほど離れて、K村から倶知安《くっちゃん》に通う道路添《みちぞ》いに、佐藤与十という小作人の小屋があった。与十という男は小柄で顔色も青く、何年たっても齢《とし》をとらないで、働きも甲斐《かい》なそうに見えたが、子供の多い事だけは農場一だった。あすこの嚊《かかあ》は子種をよそから貰《もら》ってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると戯談《じょうだん》を言い合った。女房と言うのは体のがっしりした酒喰《さけぐら》いの女だった。大人数なために稼《かせ》いでも稼《かせ》いでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整っていて、不思議に男に逼《せま》る淫蕩《いんとう》な色を湛《たた》えていた。
 仁右衛門がこの農場に這入《はい》った翌朝早く、与十の妻は袷《あわせ》一枚にぼろぼろの袖無《そでな》しを着て、井戸――といっても味噌樽《みそだる》を埋めたのに赤※[#金へんに繍の正字の右側、19−5]《あかさび》の浮いた上層水《うわみず》が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る薯《いも》を洗っていると、そこに一人の男がのそりとやって来た。六尺近い背丈《せい》を少し前こごみにして、営養の悪い土気色《つちけいろ》の顔が真直に肩の上に乗っていた。当惑した野獣のようで、同時に何所《どこ》か奸譎《わるがしこ》い大きな眼が太い眉の下でぎろぎろと光っていた。それが仁右衛門だった。彼れは与十の妻を見ると一寸《ちょっと》ほほえましい気分になって、
 「おっかあ、火種べあったらちょっぴり分けてくれずに」
といった。与十の妻は犬に出遇った猫のような敵意と落着《おちつ》きを以《もっ》て彼れを見た。そして見つめたままで黙っていた。
 仁右衛門は脂《やに》のつまった大きな眼を手の甲で子供らしくこすりながら、
 「俺らあすこの小屋さ来たもんだのし。乞食《ほいと》ではねえだよ」
といってにこにこした。罪のない顔になった。与十の妻は黙って小屋に引きかえしたが、真暗な小屋の中に臥乱《ねみだ》れた子供を乗りこえ乗りこえ囲炉裡《いろり》の所に行って粗朶《そだ》を一本提げて出て来た。仁右衛門は受取ると、口をふくらましてそれを吹いた。そして何か一言二言話しあって小屋の方に帰って行った。
 この日も昨夜《ゆうべ》の風は吹き落ちていなかった。空は隅《すみ》から隅《すみ》まで底気味悪く晴れ渡っていた。そのために風は地面にばかり吹いているように見えた。佐藤の畑はとにかく秋耕《あきおこし》をすましていたのに、それに隣《とな》った仁右衛門の畑は見渡す限りかまどがえし[#「かまどがえし」に傍点]とみずひき[#「みずひき」に傍点]とあかざ[#「あかざ」に傍点]ととびつか[#「とびつか」に傍点]とで茫々《ぼうぼう》としていた。ひき残された大豆の殻《から》が風に吹かれて瓢軽《ひょうきん》な音を立てていた。あちこちにひょろひょろと立った白樺《しらかば》はおおかた葉をふるい落してなよなよとした白い幹が風にたわみながら光っていた。小屋の前の亜麻をこいだ所だけは、こぼれ種から生えた細い茎が青い色を見せていた。跡は小屋も畑も霜のために白茶けた鈍い狐色《きつねいろ》だった。仁右衛門の淋しい小屋からはそれでもやがて白い炊煙がかすかに漏れはじめた。屋根からともなく囲いからともなく湯気のように漏れた。
 朝食をすますと夫婦は十年も前から住み馴《な》れているように、平気な顔で畑に出かけて行った。二人は仕事の手配もきめずに働いた。しかし、冬を眼の前にひかえて何を先きにすればいいかを二人ながら本能のように知っていた。妻は、模様も分らなくなった風呂敷《ふろしき》を三角に折って露西亜《ロシア》人《じん》のように頬《ほお》かむりをして、赤坊を背中に背負いこんで、せっせと小枝や根っこを拾った。仁右衛門は一本の鍬《くわ》で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。外《ほか》の小作人は野良《のら》仕事に片をつけて、今は雪囲《ゆきがこい》をしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。少し高い所からは何処《どこ》までも見渡される広い平坦な耕作地の上で二人は巣に帰り損《そこ》ねた二匹の蟻《あり》のようにきりきりと働いた。果敢《はか》ない労力に句点をうって、鍬の先きが日の加減でぎらっぎらっと光った。津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林には烏《からす》もいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけて鮭《さけ》の漁場にでも移って行ってしまったのだろう。
 昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁右衛門の縁者という川森|爺《じい》さんだった。眼をしょぼしょぼさせた一徹らしい川森は仁右衛門の姿を見ると、怒ったらしい顔付をしてずかずかとその傍によって行った。
 「汝《わり》ゃ辞儀一つ知らねえ奴の、何条《なんじょう》いうて俺らがには来くさらぬ。帳場さんのう知らしてくさずば、いつまでも知んようもねえだった。先ずもって小屋さ行ぐべし」
 三人は小屋に這入《はい》った。入口の右手に寝藁《ねわら》を敷いた馬の居所と、皮板を二、三枚ならべた穀物置場があった。左の方には入口の掘立柱《ほったてばしら》から奥の掘立柱にかけて一本の丸太を土の上にわたして土間に麦藁を敷きならしたその上に、所々|蓆《むしろ》が拡《ひろ》げてあった。その真中に切られた囲炉裡にはそれでも真黒に煤《すす》けた鉄瓶《てつびん》がかかっていて、南瓜《かぼちゃ》のこびりついた欠椀《かけわん》が二つ三つころがっていた。川森は恥じ入る如《ごと》く、
 「やばっちい所で」
といいながら帳場を炉の横座《よこざ》に招じた。
 そこに妻もおずおずと這入って来て、恐る恐る頭を下げた。それを見ると仁右衛門は土間に向けてかっと唾を吐いた。馬はびくん[#「びくん」に傍点]として耳をたてたが、やがて首をのばしてその香をかいだ。
 帳場は妻のさし出す白湯《さゆ》の茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに蓆の上に置いた。そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をいい聞かし初めた。小作料は三年ごとに書換えの一反歩二円二十銭である事、滞納には年二割五分の利子を付する事、村税は小作に割宛てる事
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