鹿」その声は動《やや》ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら俺《お》れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして唯呆《ただあき》れて黙って考えこんでしまった。
 粗朶《そだ》がぶしぶしと燻《い》ぶるその向座《むこうざ》には、妻が襤褸《ぼろ》につつまれて、髪をぼうぼうと乱したまま、愚かな眼と口とを節孔《ふしあな》のように開け放してぼんやり坐っていた。しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻の膝《ひざ》の上には赤坊もいなかった。
 その晩から天気は激変して吹雪《ふぶき》になった。翌朝《あくるあさ》仁右衛門が眼をさますと、吹き込んだ雪が足から腰にかけて薄《うっす》ら積っていた。鋭い口笛のようなうなり[#「うなり」に傍点]を立てて吹きまく風は、小屋をめきりめきりとゆすぶり立てた。風が小凪《おな》ぐと滅入《めい》るような静かさが囲炉裡《いろり》まで逼《せま》って来た。
 仁右衛門は朝から酒を欲したけれども一滴もありようはなかった。寝起きから妙に思い入っているようだった彼れは、何かのきっかけ[#「きっかけ
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