河面《かわづら》を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような渦紋《かもん》を描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとその戯《たわむ》れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。凡《すべ》ての事が他人事《ひとごと》のように順序よく手に取るように記憶に甦《よみがえ》った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸はぷっつり[#「ぷっつり」に傍点]切れてしまった。彼れはそこの所を幾度も無関心に繰返した。笠井の娘――笠井の娘――笠井の娘がどうしたんだ――彼れは自問自答した。段々眼がかすんで来た。笠井の娘……笠井……笠井だな馬を片輪《かたわ》にしたのは。そう考えても笠井は彼れに全く関係のない人間のようだった。その名は彼れの感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに落ちてしまった。
 彼れは夜中になってからひょっくり[#「ひょっくり」に傍点]小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の香がした。それを嗅《か》ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつ
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