まらない現実に帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さした。もし妻に怪我《けが》でもあったのではなかったか――彼れは炉《ろ》の消えて真闇《まっくら》な小屋の中を手さぐりで妻を尋ねた。眼をさまして起きかえった妻の気配がした。
「今頃まで何所《どこ》さいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。傷《いたわ》しい事べおっびろげてはあ」
妻は眠っていなかったようなはっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういった。彼れは闇に慣れて来た眼で小屋の片隅《かたすみ》をすかして見た。馬は前脚に重味がかからないように、腹に蓆《むしろ》をあてがって胸の所を梁《はり》からつるしてあった。両方の膝頭《ひざがしら》は白い切れで巻いてあった。その白い色が凡《すべ》て黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない囲炉裡《いろり》の前に、草鞋《わらじ》ばきで頭を垂れたまま安座《あぐら》をかいた。馬もこそっ[#「こそっ」に傍点]とも音をさせずに黙っていた。蚊のなく声だけが空気のささやきのようにかすか
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