馬はまだ起きていなかった。後趾《あとあし》で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れてしまった。訓練のない見物人は潮《うしお》のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。
 仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は惘然《ぼんやり》したまま、不思議相《ふしぎそう》な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外《ほか》はなかった。
 獣医の心得もある蹄鉄屋《ていてつや》の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路《みち》の小石を二つ三つ掴《つか》んで入口の硝子《ガラス》戸《ど》にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵《みじん》にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々《ゆうゆう》としてまたそこを歩み去った。
 彼れが気がついた時には、何方《どっち》をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり
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