のように滑かな空気は動かないままに彼れをいたわるように押包んだ。荒くれた彼れの神経もそれを感じない訳には行かなかった。物なつかしいようななごやか[#「なごやか」に傍点]な心が彼れの胸にも湧いて来た。彼れは闇の中で不思議な幻覚に陥りながら淡くほほえんだ。
足音が聞こえた。彼れの神経は一時に叢立《むらだ》った。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。
「誰れだ汝《わり》ゃ」
低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒りに震えていた。
「お主こそ誰れだと思うたら広岡さんじゃな。何んしに今時こないな所にいるのぞい」
仁右衛門は声の主が笠井の四国猿奴《しこくざるめ》だと知るとかっ[#「かっ」に傍点]となった。笠井は農場一の物識《ものし》りで金持《まるもち》だ。それだけで癇癪《かんしゃく》の種には十分だ。彼れはいきなり笠井に飛びかかって胸倉《むなぐら》をひっつかんだ。かーっ[#「かーっ」に傍点]といって出した唾《つば》を危くその面《かお》に吐きつけようとした。
この頃浮浪人が出て毎晩集会所に集って焚火《たきび》なぞをするから用心が悪い、と人々がいうので神社の
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