いって人々は彼れを恐れ憚《はばか》った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名《あだな》していたのだ。
 時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々の噂《うわさ》に上るようになった。

 一日働き暮すとさすが労働に慣れ切った農民たちも、眼の廻るようなこの期節の忙しさに疲れ果てて、夕飯もそこそこに寝込んでしまったが、仁右衛門ばかりは日が入っても手が痒《かゆ》くてしようがなかった。彼れは星の光をたよりに野獣のように畑の中で働き廻わった。夕飯は囲炉裡の火の光でそこそこにしたためた。そうしてはぶらり[#「ぶらり」に傍点]と小屋を出た。そして農場の鎮守《ちんじゅ》の社の傍の小作人集会所で女と会った。
 鎮守は小高い密樹林の中にあった。ある晩仁右衛門はそこで女を待ち合わしていた。風も吹かず雨も降らず、音のない夜だった。女の来ようは思いの外《ほか》早い事も腹の立つほどおそい事もあった。仁右衛門はだだっ広い建物の入口の所で膝《ひざ》をだきながら耳をそばだてていた。
 枝に残った枯葉が若芽にせきたてられて、時々かさっと地に落ちた。天鵞絨《ビロード》
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