河面《かわづら》を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような渦紋《かもん》を描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとその戯《たわむ》れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。凡《すべ》ての事が他人事《ひとごと》のように順序よく手に取るように記憶に甦《よみがえ》った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸はぷっつり[#「ぷっつり」に傍点]切れてしまった。彼れはそこの所を幾度も無関心に繰返した。笠井の娘――笠井の娘――笠井の娘がどうしたんだ――彼れは自問自答した。段々眼がかすんで来た。笠井の娘……笠井……笠井だな馬を片輪《かたわ》にしたのは。そう考えても笠井は彼れに全く関係のない人間のようだった。その名は彼れの感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに落ちてしまった。
彼れは夜中になってからひょっくり[#「ひょっくり」に傍点]小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の香がした。それを嗅《か》ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつまらない現実に帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さした。もし妻に怪我《けが》でもあったのではなかったか――彼れは炉《ろ》の消えて真闇《まっくら》な小屋の中を手さぐりで妻を尋ねた。眼をさまして起きかえった妻の気配がした。
「今頃まで何所《どこ》さいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。傷《いたわ》しい事べおっびろげてはあ」
妻は眠っていなかったようなはっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういった。彼れは闇に慣れて来た眼で小屋の片隅《かたすみ》をすかして見た。馬は前脚に重味がかからないように、腹に蓆《むしろ》をあてがって胸の所を梁《はり》からつるしてあった。両方の膝頭《ひざがしら》は白い切れで巻いてあった。その白い色が凡《すべ》て黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない囲炉裡《いろり》の前に、草鞋《わらじ》ばきで頭を垂れたまま安座《あぐら》をかいた。馬もこそっ[#「こそっ」に傍点]とも音をさせずに黙っていた。蚊のなく声だけが空気のささやきのようにかすかに聞こえていた。仁右衛門は膝頭で腕を組み合せて、寝ようとはしなかった。馬と彼れは互に憐れむように見えた。
しかし翌日になると彼れはまたこの打撃から跳ね返っていた。彼れは前の通りな狂暴な彼れになっていた。彼れはプラオを売って金に代えた。雑穀屋からは、燕麦《からすむぎ》が売れた時事務所から直接に代価を支払うようにするからといって、麦や大豆の前借りをした。そして馬力を頼んでそれを自分の小屋に運ばして置いて、賭場《とば》に出かけた。
競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は松川の所に帰って来なかった。こんな晩に若い男女が畑の奥や森の中に姿を隠すのは珍らしい事でもないので初めの中《うち》は打捨てておいたが、余りおそくなるので、笠井の小屋を尋ねさすとそこにもいなかった。笠井は驚いて飛んで来た。しかし広い山野をどう探しようもなかった。夜のあけあけに大捜索が行われた。娘は河添《かわぞい》の窪地《くぼち》の林の中に失神して倒れていた。正気づいてから聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って残虐《ざんぎゃく》を極めた辱《はず》かしめかたをしたのだと判《わか》った。笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の硝子《ガラス》を広岡がこわすのを見たという者が出て来た。
犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎《いなか》にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目《かいもく》つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広岡の馬を躓《つまず》かしたのは間接ながら笠井の娘の仕業《しわざ》だった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが広岡は小屋にいなかった。その晩広岡を村で見かけたものは一人もなかった。賭場にさえいなかった。仁右衛門に不利益な色々な事情は色々に数え上げられたが、具体的な証拠は少しも上らないで夏がくれた。
秋の収穫時になるとまた雨が来た。乾燥が出来ないために、折角|実《みの》ったものまで腐る始末だった。小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが無益だった。彼らは案《あん》の定《じょう》燕麦|売揚《うりあげ》代金の中から厳密に小作料を控除された。来春の種子《たね》は愚か、冬の間を支える食料も満足に得られ
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