。他人《ひと》の妾《めかけ》に目星をつけて何になると皮肉をいうものもあった。
何しろ競馬は非常な景気だった。勝負がつく度に揚る喝采《かっさい》の声は乾いた空気を伝わって、人々を家の内にじっとさしては置かなかった。
仁右衛門はその頃|博奕《ばくち》に耽《ふけ》っていた。始めの中《うち》はわざと負けて見せる博徒の手段に甘々《うまうま》と乗せられて、勢い込んだのが失敗の基《もと》で、深入りするほど損をしたが、損をするほど深入りしないではいられなかった。亜麻の収利は疾《とう》の昔にけし飛んでいた。それでも馬は金輪際《こんりんざい》売る気がなかった。剰《あま》す所は燕麦《からすむぎ》があるだけだったが、これは播種時《たねまきどき》から事務所と契約して、事務所から一手に陸軍|糧秣廠《りょうまつしょう》に納める事になっていた。その方が競争して商人に売るのよりも割がよかったのだ。商人どもはこのボイコットを如何《どう》して見過していよう。彼らは農家の戸別訪問をして糧秣廠よりも遙かに高価に引受けると勧誘した。糧秣廠から買入代金が下ってもそれは一応事務所にまとまって下るのだ。その中から小作料だけを差引いて小作人に渡すのだから、農場としては小作料を回収する上にこれほど便利な事はない。小作料を払うまいと決心している仁右衛門は馬鹿な話だと思った。彼れは腹をきめた。そして競馬のために人の注意がおろそかになった機会を見すまして、商人と結托して、事務所へ廻わすべき燕麦をどんどん商人に渡してしまった。
仁右衛門はこの取引をすましてから競馬場にやって来た。彼れは自分の馬で競走に加わるはずになっていたからだ。彼れは裸乗りの名人だった。
自分の番が来ると彼れは鞍《くら》も置かずに自分の馬に乗って出て行った。人々はその馬を見ると敬意を払うように互にうなずき合って今年の糶《せり》では一番物だと賞《ほ》め合った。仁右衛門はそういう私語《ささやき》を聞くといい気持ちになって、いやでも勝って見せるぞと思った。六頭の馬がスタートに近づいた。さっと旗が降りた時仁右衛門はわざと出おくれた。彼れは外《ほか》の馬の跡から内埒《うちわ》へ内埒へとよって、少し手綱《たづな》を引きしめるようにして駈《か》けさした。ほてった彼の顔から耳にかけて埃《ほこり》を含んだ風が息気《いき》のつまるほどふきかかるのを彼れは快く思った。やがて馬場《ばば》を八分目ほど廻った頃を計《はか》って手綱をゆるめると馬は思い存分|頸《くび》を延ばしてずんずんおくれた馬から抜き出した。彼れが鞭《むち》とあおり[#「あおり」に傍点]で馬を責めながら最初から目星をつけていた先頭の馬に追いせまった時には決勝点が近かった。彼れはいらだってびしびしと鞭をくれた。始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような喚呼《かんこ》が夢中になった彼れの耳にも明かに響《ひび》いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然|桟敷《さじき》の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒《らち》の中へ這入《はい》った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に固唾《かたず》を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の華手《はで》な着物に驚いたのか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に飛び上って、やがて敲《たた》きつけられるように地面に転がっていた。彼れは気丈《きじょう》にも転がりながらすっく[#「すっく」に傍点]と起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛んで行った。馬はまだ起きていなかった。後趾《あとあし》で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れてしまった。訓練のない見物人は潮《うしお》のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。
仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は惘然《ぼんやり》したまま、不思議相《ふしぎそう》な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外《ほか》はなかった。
獣医の心得もある蹄鉄屋《ていてつや》の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路《みち》の小石を二つ三つ掴《つか》んで入口の硝子《ガラス》戸《ど》にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵《みじん》にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々《ゆうゆう》としてまたそこを歩み去った。
彼れが気がついた時には、何方《どっち》をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり
前へ
次へ
全20ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング