、やがて川森も笠井も去ってしまった。
水を打ったような夜の涼しさと静かさとの中にかすかな虫の音がしていた。仁右衛門は何という事なしに妻が癪《しゃく》にさわってたまらなかった。妻はまた何という事なしに良人《おっと》が憎まれてならなかった。妻は馬力の傍にうずくまり、仁右衛門はあてもなく唾《つば》を吐き散らしながら小屋の前を行ったり帰ったりした。よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を更《ふ》かすのだろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。物の三時間も二人はそうしたままで何もせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]小屋の前で月の光にあわれな姿をさらしていた。
やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。妻は眼に角《かど》を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。暫《しば》らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬《くわ》を右手に提《さ》げて小屋から出て来た。
「ついて来《こ》う」
そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な啼声《なきごえ》で動物と動物とが互《たがい》を理解し合うように、妻は仁右衛門のしようとする事が呑み込めたらしく、のっそり[#「のっそり」に傍点]と立上ってその跡に随《したが》った。そしてめそめそと泣き続けていた。
夫婦が行き着いたのは国道を十町も倶知安《くっちゃん》の方に来た左手の岡の上にある村の共同墓地だった。そこの上からは松川農場を一面に見渡して、ルベシベ、ニセコアンの連山も川向いの昆布岳《こんぶだけ》も手に取るようだった。夏の夜の透明な空気は青み亘《わた》って、月の光が燐のように凡《すべ》ての光るものの上に宿っていた。蚊《か》の群がわんわんうなって二人に襲いかかった。
仁右衛門は死体を背負ったまま、小さな墓標や石塔の立列《たちつらな》った間の空地に穴を掘りだした。鍬の土に喰い込む音だけが景色に少しも調和しない鈍い音を立てた。妻はしゃがんだままで時々|頬《ほお》に来る蚊をたたき殺しながら泣いていた。三尺ほどの穴を掘り終ると仁右衛門は鍬の手を休めて額の汗を手の甲で押拭《おしぬぐ》った。夏の夜は静かだった。その時突然恐ろしい考が彼れの吐胸《とむね》を突いて浮んだ。彼れはその考に自分ながら驚いたように呆《あき》れて眼を見張っていたが、やがて大声を立てて頑童《がんどう》の如《ごと》く泣きおめき始めた。その声は醜く物凄《ものすご》かった。妻はきょっとん[#「きょっとん」に傍点]として、顔中を涙にしながら恐ろしげに良人《おっと》を見守った。
「笠井の四国猿めが、嬰子《にが》事殺しただ。殺しただあ」
彼れは醜い泣声の中からそう叫んだ。
翌日彼れはまた亜麻の束を馬力に積もうとした。そこには華手《はで》なモスリンの端切《はぎ》れが乱雲の中に現われた虹《にじ》のようにしっとり朝露にしめったまま穢《きた》ない馬力の上にしまい忘られていた。
(六)
狂暴な仁右衛門は赤坊を亡《な》くしてから手がつけられないほど狂暴になった。その狂暴を募らせるように烈《はげ》しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が片端《かたっぱし》から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。
一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向きもしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、捨鉢《すてばち》な気分になって、馬の売買にでも多少の儲《もうけ》を見ようとしたから、前景気は思いの外《ほか》強かった。当日には近村からさえ見物が来たほど賑《にぎ》わった。丁度農場事務所裏の空地《あきち》に仮小屋が建てられて、爪《つめ》まで磨き上げられた耕馬が三十頭近く集まった。その中で仁右衛門の出した馬は殊に人の眼を牽《ひ》いた。
その翌日には競馬があった。場主までわざわざ函館《はこだて》からやって来た。屋台店や見世物小屋がかかって、祭礼に通有な香のむしむしする間を着飾った娘たちが、刺戟《しげき》の強い色を振播《ふりま》いて歩いた。
競馬場の埒《らち》の周囲は人垣で埋った。三、四軒の農場の主人たちは決勝点の所に一段高く桟敷《さじき》をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に奉公していたのだ。父に似て細面《ほそおもて》の彼女は函館の生活に磨きをかけられて、この辺では際立って垢抜《あかぬ》けがしていた。競馬に加わる若い者はその妙齢な娘の前で手柄を見せようと争った
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