]にひびかせて行った。幾抱えもある椴松は羊歯《しだ》の中から真直に天を突いて、僅《わず》かに覗《のぞ》かれる空には昼月が少し光って見え隠れに眺められた。彼れは遂に馬力の上に酔い倒れた。物慣れた馬は凸凹の山道を上手に拾いながら歩いて行った。馬車はかしいだり跳ねたりした。その中で彼れは快い夢に入ったり、面白い現《うつつ》に出たりした。
仁右衛門はふと熟睡から破られて眼をさました。その眼にはすぐ川森|爺《じい》さんの真面目《まじめ》くさった一徹な顔が写った。仁右衛門の軽い気分にはその顔が如何《いか》にもおかしかったので、彼れは起き上りながら声を立てて笑おうとした。そして自分が馬力の上にいて自分の小屋の前に来ている事に気がついた。小屋の前には帳場も佐藤も組長の某もいた。それはこの小屋の前では見慣れない光景だった。川森は仁右衛門が眼を覚ましたのを見ると、
「早《はよ》う内さ行くべし。汝《われ》が嬰子《にが》はおっ死《ち》ぬべえぞ。赤痢さとッつかれただ」
といった。他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、最初に彼れの顔を高笑いにくずそうとしたが、すぐ次ぎの瞬間に、彼れの顔の筋肉を一度気《いちどき》にひきしめてしまった。彼れは顔中の血が一時に頭の中に飛《と》び退《の》いたように思った。仁右衛門は酔いが一時に醒《さ》めてしまって馬力から飛び下りた。小屋の中にはまだ二、三人人がいた。妻はと見ると虫の息に弱った赤坊の側に蹲《うずくま》っておいおい泣いていた。笠井が例の古鞄《ふるかばん》を膝に引つけてその中から護符のようなものを取出していた。
「お、広岡さんええ所に帰ったぞな」
笠井が逸早《いちはや》く仁右衛門を見付けてこういうと、仁右衛門の妻は恐れるように怨《うら》むように訴えるように夫を見返って、黙ったまま泣き出した。仁右衛門はすぐ赤坊の所に行って見た。章魚《たこ》のような大きな頭だけが彼れの赤坊らしい唯《ただ》一つのものだった。たった半日の中《うち》にこうも変るかと疑われるまでにその小さな物は衰え細っていた。仁右衛門はそれを見ると腹が立つほど淋しく心許《こころもと》なくなった。今まで経験した事のないなつかしさ可愛さが焼くように心に逼《せま》って来た。彼れは持った事のないものを強いて押付けられたように当惑してしまった。その押付けられたものは恐ろしく重い冷たいものだった。何よりも先ず彼れは腹の力の抜けて行くような心持ちをいまいましく思ったがどうしようもなかった。
勿体《もったい》ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を呪文《じゅもん》を称《とな》えながら撫《な》で廻わすのが唯一の力に思われた。傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸《はらわた》をむしられるようだった。それでも泣いている間はまだよかった。赤坊が泣きやんで大きな眼を引つらしたまま瞬《まばた》きもしなくなると、仁右衛門はおぞましくも拝むような眼で笠井を見守った。小屋の中は人いきれで蒸すように暑かった。笠井の禿上《はげあが》った額からは汗の玉がたらたらと流れ出た。それが仁右衛門には尊くさえ見えた。小半時《こはんとき》赤坊の腹を撫で廻わすと、笠井はまた古鞄の中から紙包を出して押いただいた。そして口に手拭《てぬぐい》を喰わえてそれを開くと、一寸四方ほどな何か字の書いてある紙片を摘《つま》み出して指の先きで丸めた。水を持って来さしてそれをその中へ浸した。仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐《かいがい》しく良人《おっと》に代った。渇き切っていた赤坊は喜んでそれを飲んだ。仁右衛門は有難いと思っていた。
「わしも子は亡《な》くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる。この子を助けようと思ったら何せ一心に天理王様に頼まっしゃれ。な。合点か。人間|業《わざ》では及ばぬ事じゃでな」
笠井はそういってしたり顔をした。仁右衛門の妻は泣きながら手を合せた。
赤坊は続けさまに血を下した。そして小屋の中が真暗になった日のくれぐれに、何物にか助けを求める成人《おとな》のような表情を眼に現わして、あてどもなくそこらを見廻していたが、次第次第に息が絶えてしまった。
赤坊が死んでから村医は巡査に伴《つ》れられて漸《ようや》くやって来た。香奠《こうでん》代りの紙包を持って帳場も来た。提灯《ちょうちん》という見慣れないものが小屋の中を出たり這入《はい》ったりした。仁右衛門夫婦の嗅《か》ぎつけない石炭酸の香は二人を小屋から追出してしまった。二人は川森に付添われて西に廻った月の光の下にしょんぼり立った。
世話に来た人たちは一人去り二人去り
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