ない農夫が沢山出来た。
 その間にあって仁右衛門だけは燕麦の事で事務所に破約したばかりでなく、一文の小作料も納めなかった。綺麗に納めなかった。始めの間帳場はなだめつすかしつして幾らかでも納めさせようとしたが、如何《どう》しても応じないので、財産を差押えると威脅《おどか》した。仁右衛門は平気だった。押えようといって何を押えようぞ、小屋の代金もまだ事務所に納めてはなかった。彼れはそれを知りぬいていた。事務所からは最後の手段として多少の損はしても退場さすと迫って来た。しかし彼れは頑《がん》として動かなかった。ペテンにかけられた雑穀屋をはじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。

   (七)

 「まだか」、この名は村中に恐怖を播《ま》いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ疾《とう》の昔《むかし》に仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人もなくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させてくれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する事を体《てい》よく避けた。笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。凡《すべ》て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。
 仁右衛門は押太《おしぶ》とく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうとはしなかった。彼れの後悔しているものは博奕《ばくち》だけだった。来年からそれにさえ手を出さなければ、そして今年同様に働いて今年同様の手段を取りさえすれば、三、四年の間に一かど纏《まと》まった金を作るのは何でもないと思った。いまに見かえしてくれるから――そう思って彼れは冬を迎えた。
 しかし考えて見ると色々な困難が彼れの前には横《よこた》わっていた。食料は一冬事かかぬだけはあっても、金は哀れなほどより貯えがなかった。馬は競馬以来廃物になっていた。冬の間|稼《かせ》ぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から追立てを喰うのは知れ切っていた。といって小屋に居残れば居食いをしている外《ほか》はないのだ。来年の種子《たね》さえ工面のしようのないのは今から知れ切っていた。
 焚火《たきび》にあたって、きかなくなった馬の前脚をじっと見つめながらも考えこんだまま暮すような日が幾日も続いた。
 佐藤をはじめ彼れの軽蔑《けいべつ》し切っている場内の小作者どもは、おめおめと小作料を搾取《しぼりと》られ、商人に重い前借をしているにもかかわらず、とにかくさした屈托《くったく》もしないで冬を迎えていた。相当の雪囲いの出来ないような小屋は一つもなかった。貧しいなりに集って酒も飲み合えば、助け合いもした。仁右衛門には人間がよってたかって彼れ一人を敵にまわしているように見えた。
 冬は遠慮なく進んで行った。見渡す大空が先ず雪に埋められたように何所《どこ》から何所まで真白になった。そこから雪は滾々《こんこん》としてとめ度なく降って来た。人間の哀れな敗残の跡を物語る畑も、勝ちほこった自然の領土である森林も等しなみに雪の下に埋れて行った。一夜の中《うち》に一尺も二尺も積り重なる日があった。小屋と木立だけが空と地との間にあって汚ない斑点《しみ》だった。
 仁右衛門はある日膝まで這入《はい》る雪の中をこいで事務所に出かけて行った。いくらでもいいから馬を買ってくれろと頼んで見た。帳場はあざ笑って脚の立たない馬は、金を喰う機械見たいなものだといった。そして竹箆返《しっぺがえ》しに跡釜《あとがま》が出来たから小屋を立退けと逼《せま》った。愚図愚図していると今までのような煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ倶知安《くっちゃん》からでも頼んで処分するからそう思えともいった。仁右衛門は帳場に物をいわれると妙に向腹《むかっぱら》が立った。鼻をあかしてくれるから見ておれといい捨てて小屋に帰った。
 金を喰う機械――それに違いなかった。仁右衛門は不愍《ふびん》さから今まで馬を生かして置いたのを後悔した。彼れは雪の中に馬を引張り出した。老いぼれたようになった馬はなつかしげに主人の手に鼻先きを持って行った。仁右衛門は右手に隠して持っていた斧《おの》で眉間《みけん》を喰らわそうと思っていたが、どうしてもそれが出来なかった。彼れはまた馬を牽《ひ》いて小屋に帰った。
 その翌日彼れは身仕度をして函館《はこだて》に出懸けた。彼れは場主と一喧嘩《ひとけんか》して笠井の仕遂《しおお》せなかった小作料の軽減を実行させ、自分も農場にいつづき、小作者の感情をも柔らげて少しは自分を居心地よくしようと思ったのだ。彼れは汽車の中で自分のいい分を
前へ 次へ
全20ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング