いばかりではない、声を出す力さえなかった。そして跛脚《ちんば》をひきひきまた返って来た。
 彼らは眠くなるほど疲れ果てながらまた三町ほど歩かねばならなかった。そこに下見囲《したみがこい》、板葺《いたぶき》の真四角な二階建が外《ほか》の家並を圧して立っていた。
 妻が黙ったまま立留《たちどま》ったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。もう進退|窮《きわま》った。彼れは道の向側の立樹《たちき》の幹に馬を繋《つな》いで、燕麦《からすむぎ》と雑草とを切りこんだ亜麻袋を鞍輪《くらわ》からほどいて馬の口にあてがった。ぼりりぼりりという歯ぎれのいい音がすぐ聞こえ出した。彼れと妻とはまた道を横切って、事務所の入口の所まで来た。そこで二人は不安らしく顔を見合わせた。妻がぎごちなそうに手を挙げて髪をいじっている間に彼れは思い切って半分ガラスになっている引戸を開けた。滑車がけたたましい音をたてて鉄の溝を滑《すべ》った。がたぴしする戸ばかりをあつかい慣れている彼れの手の力があまったのだ。妻がぎょっとするはずみに背《せなか》の赤坊も眼を覚《さま》して泣き出した。帳場にいた二人の男は飛び上らんばかりに驚いてこちらを見た。そこには彼れと妻とが泣く赤坊の始末もせずにのそりと突立っていた。
 「何んだ手前《てめえ》たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込むでねえか。這入るのなら早く這入って来《こ》う」
 紺《こん》のあつし[#「あつし」に傍点]をセルの前垂れで合せて、樫《かし》の角火鉢《かくひばち》の横座《よこざ》に坐った男が眉《まゆ》をしかめながらこう怒鳴《どな》った。人間の顔――殊《こと》にどこか自分より上手《うわて》な人間の顔を見ると彼れの心はすぐ不貞腐《ふてくさ》れるのだった。刃《やいば》に歯向う獣のように捨鉢《すてばち》になって彼れはのさのさと図抜けて大きな五体を土間に運んで行った。妻はおずおずと戸を閉《し》めて戸外に立っていた、赤坊の泣くのも忘れ果てるほどに気を転倒させて。
 声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭《くちひげ》の不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。彼れの心は緊
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