えるだけだった。六軒目には蹄鉄屋《ていてつや》があった。怪しげな煙筒からは風にこきおろされた煙の中にまじって火花が飛び散っていた。店は熔炉《ようろ》の火口《ひぐち》を開いたように明るくて、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が向側《むこうがわ》まではっきりと照らされていた。片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、強《しい》て方向《むき》を変えさせられた風の脚が意趣に砂を捲《ま》き上《あ》げた。砂は蹄鉄屋の前の火の光に照りかえされて濛々《もうもう》と渦巻く姿を見せた。仕事場の鞴《ふいご》の囲《まわ》りには三人の男が働いていた。鉄砧《かなしき》にあたる鉄槌《かなづち》の音が高く響くと疲れ果てた彼れの馬さえが耳を立てなおした。彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚《みと》れていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。
 蹄鉄屋の先きは急に闇が濃《こま》かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。荒物屋《あらものや》を兼ねた居酒屋《いざかや》らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声《だみごえ》がもれる外《ほか》には、真直《まっすぐ》な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい唸《うな》りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したように立停った。立停ってはまた無意味らしく歩き出した。
 四、五町歩いたと思うと彼らはもう町はずれに来てしまっていた。道がへし折られたように曲って、その先きは、真闇《まっくら》な窪地に、急な勾配《こうばい》を取って下っていた。彼らはその突角《とっかく》まで行ってまた立停った。遙か下の方からは、うざうざするほど繁り合った濶葉樹林《かつようじゅりん》に風の這入《はい》る音の外《ほか》に、シリベシ河のかすかな水の音だけが聞こえていた。
 「聞いて見ずに」
 妻は寒さに身をふるわしながらこううめいた。
 「汝《われ》聞いて見べし」
 いきなりそこにしゃごんでしまった彼れの声は地の中からでも出て来たようだった。妻は荷をゆりあげて鼻をすすりすすり取って返した。一軒の家の戸を敲《たた》いて、ようやく松川農場のありかを教えてもらった時は、彼れの姿を見分けかねるほど遠くに来ていた。大きな声を出す事が何んとなく恐ろしかった。恐ろし
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