を右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。
 国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。大抵は市街地に出て一杯飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう出て来なかった。糊《のり》のように粘ったものが唇《くちびる》の合せ目をとじ付けていた。
 内地ならば庚申塚《こうしんづか》か石地蔵でもあるはずの所に、真黒になった一丈もありそうな標示杭《ひょうじぐい》が斜めになって立っていた。そこまで来ると干魚《ひざかな》をやく香《におい》がかすかに彼れの鼻をうったと思った。彼れははじめて立停った。痩馬も歩いた姿勢をそのままにのそりと動かなくなった。鬣《たてがみ》と尻尾《しりっぽ》だけが風に従ってなびいた。
 「何んていうだ農場は」
 背丈《せた》けの図抜けて高い彼れは妻を見おろすようにしてこうつぶやいた。
 「松川農場たらいうだが」
 「たらいうだ? 白痴《こけ》」
 彼れは妻と言葉を交わしたのが癪《しゃく》にさわった。そして馬の鼻をぐんと手綱でしごいてまた歩き出した。暗《く》らくなった谷を距《へだ》てて少し此方《こっち》よりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影《ほかげ》は、人気《ひとけ》のない所よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはその灯《ひ》を見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配《けはい》をかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないではいられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れをいやが上にも仏頂面《ぶっちょうづら》にした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿な面《つら》をしていやがって、尻子玉《しりこだま》でもひっこぬかれるな」とでもいいそうな顔を妻の方に向けて置いて、歩きながら帯をしめ直した。良人《おっと》の顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりと開《あ》けたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。
 K市街地の町端《まちはず》れには空屋《あきや》が四軒までならんでいた。小さな窓は髑髏《どくろ》のそれのような真暗な眼を往来に向けて開いていた。五軒目には人が住んでいたがうごめく人影の間に囲炉裡《いろり》の根粗朶《ねそだ》がちょろちょろと燃えるのが見
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