張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かなかった。彼れは辞儀一つしなかった。
 赤坊が縊《くび》り殺されそうに戸の外で泣き立てた。彼れはそれにも気を取られていた。
 上框《あがりがまち》に腰をかけていたもう一人の男はやや暫《しば》らく彼れの顔を見つめていたが、浪花節《なにわぶし》語りのような妙に張りのある声で突然口を切った。
 「お主は川森さんの縁《ゆかり》のものじゃないんかの。どうやら顔が似とるじゃが」
 今度は彼れの返事も待たずに長顔の男の方を向いて、
 「帳場《ちょうば》さんにも川森から話《はな》いたはずじゃがの。主《ぬし》がの血筋を岩田が跡に入れてもらいたいいうてな」
 また彼れの方を向いて、
 「そうじゃろがの」
 それに違いなかった。しかし彼れはその男を見ると虫唾《むしず》が走った。それも百姓に珍らしい長い顔の男で、禿《は》げ上《あが》った額から左の半面にかけて火傷《やけど》の跡がてらてらと光り、下瞼《したまぶた》が赤くべっかんこをしていた。そして唇《くちびる》が紙のように薄かった。
 帳場と呼ばれた男はその事なら飲み込めたという風に、時々|上眼《うわめ》で睨《にら》み睨《にら》み、色々な事を彼れに聞《き》き糺《ただ》した。そして帳場机の中から、美濃紙《みのがみ》に細々《こまごま》と活字を刷った書類を出して、それに広岡|仁右衛門《にんえもん》という彼れの名と生れ故郷とを記入して、よく読んでから判を押せといって二通つき出した。仁右衛門(これから彼れという代りに仁右衛門と呼ぼう)は固《もと》より明盲《あきめくら》だったが、農場でも漁場《ぎょば》でも鉱山でも飯を食うためにはそういう紙の端に盲判を押さなければならないという事は心得ていた。彼れは腹がけの丼《どんぶり》の中を探り廻わしてぼろぼろの紙の塊《かたまり》をつかみ出した。そして筍《たけのこ》の皮を剥《は》ぐように幾枚もの紙を剥がすと真黒になった三文判がころがり出た。彼れはそれに息気《いき》を吹きかけて証書に孔《あな》のあくほど押しつけた。そして渡された一枚を判と一緒に丼の底にしまってしまった。これだけの事で飯の種にありつけるのはありがたい事だった。戸外では赤坊がまだ泣きやんでいなかった。
 「俺《お》ら銭《ぜに》こ一文も持たねえからちょっぴり借りたいだが」
 赤坊の事を思うと、急に小銭がほしく
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