恐《お》ず仁右衛門の所に歩いて来た。待ちかまえた仁右衛門の鉄拳はいきなり十二ほどになる長女の痩《や》せた頬《ほお》をゆがむほどたたきつけた。三人の子供は一度に痛みを感じたように声を挙げてわめき出した。仁右衛門は長幼の容捨《ようしゃ》なく手あたり次第に殴りつけた。
小屋に帰ると妻は蓆の上にペッたんこに坐って馬にやる藁《わら》をざくりざくり切っていた。赤坊はいんちこ[#「いんちこ」に傍点]の中で章魚《たこ》のような頭を襤褸《ぼろ》から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが漲《みなぎ》って、運送店の店先に較《くら》べては何から何まで便所のように穢《きたな》かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐまた外に出た。雨は膚《はだ》まで沁《し》み徹《とお》ってぞくぞく寒かった。彼れの癇癪《かんしゃく》は更《さ》らにつのった。彼れはすたすたと佐藤の小屋に出かけた。が、ふと集会所に行ってる事に気がつくとその足ですぐ神社をさして急いだ。
集会所には朝の中《うち》から五十人近い小作者が集って場主の来るのを待っていたが、昼過ぎまで待ちぼけを喰《く》わされてしまった。場主はやがて帳場を伴《とも》につれて厚い外套《がいとう》を着てやって来た。上座《かみざ》に坐ると勿体《もったい》らしく神社の方を向いて柏手《かしわで》を打って黙拝をしてから、居合わせてる者らには半分も解らないような事をしたり[#「したり」に傍点]顔にいい聞かした。小作者らはけげんな顔をしながらも、場主の言葉が途切れると尤《もっと》もらしくうなずいた。やがて小作者らの要求が笠井によって提出せらるべき順番が来た。彼れは先ず親方は親で小作は子だと説き出して、小作者側の要求をかなり強くいい張った跡で、それはしかし無理な御願いだとか、物の解らない自分たちが考える事だからだとか、そんな事は先ず後廻しでもいい事だとか、自分のいい出した事を自分で打壊すような添言葉《そえことば》を付加えるのを忘れなかった。仁右衛門はちょうどそこに行き合せた。彼れは入口の羽目板《はめいた》に身をよせてじっと聞いていた。
「こうまあ色々とお願いしたじゃからは、お互も心をしめて帳場さんにも迷惑をかけぬだけにはせずばなあ(ここで彼れは一同を見渡した様子だった)。『万国心をあわせてな』と天理教のお歌様にもあ
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