ふたゝび編輯に携はつた。矢張り同人組織ではあつても今度のはやゝ営利主義の相当な雑誌で、殆ど一人で営業方面まで受持つた私の多忙は、他人の想像をゆるさない程のものと言つてよかつた。編輯会議、執筆依頼状、座談会への人集め、焦躁、原稿催促、幹部の方の意見を聴いて編輯、兎角締切りののびのび、速達、電報、印刷所通ひ、へたくそ校正、職長さんとの衝突、写真製版屋の老人への厭味、三校を幹部の方に見ていたゞいて校了、製本屋を叱咤《しつた》、見本が出来た晩は一ト安心、十九日発売、依託雑誌の配本、返品受付、売捌元《うりさばきもと》集金、帳簿、電話――あれに心を配り、これに心を配り、愚な苦労性の私には、まるで昼が昼だか夜が夜だか分らなかつた。しかし私はてんてこ舞ひをし乍《なが》らも、只管《ひたすら》失業地獄に呻吟する人達に思ひ較《くら》べて自分を督励し、反面では眼に立つ身体の衰弱を意識して半ば宿命に服するやうな投遣《なげや》りな気持で働いた。
 五月号が市場に出てこゝ三四日は何程かの閑散を楽しまうとしてゐる夜、神楽坂署の刑事が来て、発売禁止の通達状をつきつけ、残本を差押へて行つた。私はひどく取り乱して警視庁へ電話で事の顛末《てんまつ》を訊《き》き合せたが、内務省へ出頭したらいゝとやらで、要領を得なかつた。つぎの日の朝私は女に吩咐《いひつ》けてトランクから取出させた春のインバネスを着て家を出た。春のインバネスは雑誌記者になりたて、古参の編輯同人の誰もが着てゐるので田舎ぽつと出の私は体面上是非着るべきものかと思つて月賦のやりくりで購《あがな》つたものだが、柄に不相応で極り悪く二三度手を通しただけで打つちやつてしまつてゐた。幾年かぶりで着て見ても、同じくそぐはない妙にテレ臭い感じである。行くうち不図《ふと》、この霜降りのインバネスを初めて着たをり編輯長に「君は色が黒いから似合はないね」と言はれて冷やツとした時の記憶が頭に蘇生《よみがへ》つた。と思ふと直に、先月或雑誌で私を批評して、ニグロが仏蘭西人《フランスじん》の中に混つたやうな、と嘲笑してあつた文字と思ひ合された。幼年、少年、青年の各時代を通じて免かれなかつた色の黒いひけ目が思ひがけぬ流転の後の現在にまで尾を曳《ひ》くかと淡い驚嘆が感じられた。今日に至つた己が長年月のあひだに一体何んの変化があつたであらう?
 禍《わざはひ》も悩みも昔と更に選ぶところない一ト色である。思想の進歩、道徳の進歩――何んにも無い。みんな子供の頃と同じではないか! と又しても今更のやうな驚嘆を以て、きよろ/\自分を見廻しながら電車通りへ歩いて行つた。電車の中に腰を掛け項《うなじ》を垂れて見ると、インバネスの裾前に二ヶ所も虫が小指大の穴を開けてゐるのに気づいた。あゝ惜しいことをした、と私は思はず呟《つぶや》いて手をのべてその穴に触つて見た。
 大手町で電車を降り、停留場前のバラック仮建築の内務省の門衛に訊き、砂利を踏んで這入《はひ》つて、玄関で竹草履に履《は》きかへてゐると、
「やあ」と誰やら、肩幅の広い、体格のがつしりした若者が、私の前に立ち塞《ふさ》がつて言つた。「兄さんですか?」
「えツ!」
 私は一瞬|慄毛《おぞけ》を振るつて後退《あとずさ》るやうにして面を振り立てた。とそこに、袖丈《そでたけ》の短い洋服からシャツのはみでた無骨な手に黒革の手提トランクを提げ、真新しい赤靴を穿《は》いて突つ立つてゐる男は、別れた妻の三番目の弟の修一ではないか。厚い唇を怖《おそ》ろしくぎゆツと噛み締めた顔を見ると、私は一も二もなく観念して眼を足もとに落した。二人は一寸の間無言で相対した。
「どうも済みません」と、私は存外度胸を据ゑて帽子を脱いで特別|叮嚀《ていねい》なお辞儀をして言つたが、さすがに声はおろ/\震へた。
「いや、もう、そんなことは過ぎたことですから」と修一は言下に打消したが、冠つたまゝの黒の中折の下の、眉間《みけん》の皺《しわ》は嶮《けは》しく、眼の剣は無気味に鋭かつた。「牛込のはうにいらつしやるさうですね。僕、昨年から横浜に来てゐます。こゝへは用事で隔日おきにやつて来ます」
 瞬《またゝ》きもせず修一は懐中から名刺を一枚抜いて出した。横浜市××町二ノ八、横浜メーター計量株式会社、としるしてある名刺を見詰めて私は、額に生汗をにじませ口をもぐ/\させてしどろもどろの受け答をしたが、何んとかして早く此場が逃げたくなつた。
「いづれ、後日お会ひして、ゆつくり話しませう。……今日は急ぐので」
「えゝ、どうぞ訪ねて来て下さい。僕も、ご迷惑でなかつたら上つてもいゝです。あなたには、いろ/\お世話になつてゐるので、一度お礼|旁々《かた/″\》お伺ひしようと思つてゐました」
 二人は会釈《ゑしやく》して玄関の突き当りで右と左とに別れた。給仕の少年に導かれて検閲課の室に入ると、柿のやうに頭の尖《と》がんだ掛員は私に椅子《いす》をすゝめて置いて、質素な鉄縁眼鏡に英字新聞を摺《す》りつけたまゝ、発禁の理由は風俗|紊乱《びんらん》のかどであることを告げて、極めて横柄な事務的の口調で忠告めいたことを言ひ渡した。私はたゞもう、わな/\慄《ふる》へながら、はあ、はあ、と頷いて聞き終ると一つお叩頭《じぎ》をして引き退つた。また修一に掴まりさうで、私は俯向いて廊下を小走り、外へ出ても傍目《わきめ》もふらず身体を傾けて舗道を急いだ。
 雑誌の盟主であるR先生の相模《さがみ》茅《ち》ヶ|崎《さき》の別荘に、その日同人の幹部の人達が闘花につめかけてゐるので、私は一刻も早く一部始終を報告しようと思つて、その足で東京駅から下り列車に乗つた。私は帽子を網棚に上げ、窓枠に肘《ひぢ》を凭《もた》せ、熱した額を爽《さは》やかな風に当てた。胸には猶苦しい鼓動が波立つてゐた。眼を細めて、歯を合せて、襲ひ寄るものを払ひ除けようとしてゐた。
 反《そり》の合はない数多い妻の弟達の中で、この修一だけは平生から私を好いてゐた。大震災の年に丁度上京してゐた私を頼つて修一も上京し、新聞配達をしつゝ予備校に通つてゐたが、神田で焼き出されて本郷の私の下宿に遁《のが》れて来た。火に迫られて下宿の家族と一しよに私が駒込西ヶ原へ避難する時、修一は私の重い柳行李《やなぎがうり》を肩に舁《かつ》いでくれたりした。私は修一の言葉遣や振舞の粗野を嫌ひ、それに私自身も貧乏だつたので、宥《なだ》めすかして赤羽から国へ発たせたが、汽車の屋根に腹伏せになつて帰つたといふ通知を受けたときは、私は彼を厄介視した無慈悲が痛く心を衝いた。修一は私が下宿の娘と大そう仲がいゝとか、着物の綻《ほころ》びを縫つて貰つてゐるとか妻に告口したので、間もなく帰国した私に、「独身に見せかけて、わたしに手紙を出させんといて、へん、みな知つちよるい!」と、妻は炎のやうな怨みを述べたのであつた。
 自分が妻や、妻の弟妹達に与へた打撃、あれほど白昼堂々と悪いことをして置いて、而《しか》も心から悪いと項垂《うなだ》れ恐れ入ることをしない私なのである。何んと言ふなつてない人間だらう? 現に先程修一にぶつかつた場合の、あの身構へ、あの白々しさ、あの鉄面皮と高慢――電気に触れたやうにさう思へた刹那《せつな》、私は悚然《しようぜん》と身を縮め、わな/\打震へた。次から次と断片的に、疚《やま》しさの発作が浮いては沈み、沈んでは浮びしてゐるうちに、汽車は茅ヶ崎に着いた。
 息切れがするので海岸の別荘まで私は俥《くるま》に乗つて行つた。さまで広からぬ一室ではあるが、窓々のどつしりした絢爛《けんらん》な模様の緞子《どんす》のカーテンが明暗を調節した瀟洒《せうしや》な離れの洋館で、花に疲れた一同は中央の真白き布をしたテエブルに集まつて、お茶を飲み、点心《てんじん》をつまみ、ブランスウヰックのバナトロープとかいふ電磁器式になつてゐる蓄音機の華やかな奏楽に聞蕩《きゝと》れてゐた。私が入ると音楽は止んだ。私は眼をしよぼ/\させて事の成り行きを告げると、出し立ての薫《かを》りのいゝお茶を一杯馳走になつて直ぐ辞し去つた。そして松林の中の粉つぽい白い砂土の小径《こみち》を駅の方へとぼ/\歩いた。地上はそれ程でもないのに空では凄《すさま》じい春風が笞《むち》のやうにピユーピユー鳴つてゐる。高い松の枝がそれに格闘するかの如く合奏してゐた。私はハンカチーフで鼻腔《びかう》を蔽《おほ》ひながら松風の喧囂《けんがう》に心を囚へられてゐると、偶然、あの、十四歳の少年の自分が中学入学のをり父につれられてY町に出て行く途上で聞いた松の歌が此処《こゝ》でも亦《また》耳底に呼び起された。と、交互に襲ひ来る希望と絶望との前にへたばるやうな気持であつた。痛恨と苦しい空漠《くうばく》とがある。私はふいに歩調をゆるめたりなどして、今歩いて来た後方を遙《はるか》に振り向いて見たりした。――私が春のインバネスを羽織つてゐたことを修一から別れた妻が聞いたら、「おや/\、そないなお洒落《しやれ》をしとつたの、イヨウ/\」と、嘸《さぞ》かし笑ふであらう。そのはしやいだ賑やかな笑ひ、笑ふたびの三角な眼、鼻の頭の小皺、反歯《そつぱ》などが一ト時|瞳《ひとみ》の先に映り動いた。私は相手の幻影に顔を赧《あか》らめてにつこり笑ひかけた。私は修一に、「姉さんは、何うしてゐます? どこへ再婚しました? 今度は幸福ですか?」と、謙遜なほゝゑみを浮べて、打開いた、素直な心で一言尋ね得たらどんなによかつただらうにと思つた。彼女は、此頃やうやく新進作家として文壇の片隅に出てゐる私の、彼女と私との経緯《いきさつ》を仕組んだ小説も或は必定読んでをるにきまつてゐる。憎んでも憎み足りない私であつても八年の間|良人《をつと》と呼んだのだから、憎んでも憎《にく》み甲斐《がひ》なく、悪口言つて言ひ甲斐もないことなのである。失敗しないやう陰ながら贔屓《ひいき》に思つて念じてくれてゐるに違ひないのだ。たとひ肉体の上では別々になつてゐても一人の子供を、子を棄てる藪《やぶ》はあつても身を棄てる藪はないと言つて妻に逃げ出されて後は、ひとり冷たい石を抱くやうにして育つて行つてゐる子供を中にして、真先に思はれるものは、私の妻として、現在同棲の女でなく、初恋の雪子でもなく、久離切つて切れない静子であるのだから。いとし静子よ! と私は絶えて久しい先妻の本名を口に出して呼ぶのであつた。お前の永遠の良人は僕なのだから――と私は声をあげて叫び掛け、悲しみを哀訴し強調するのであつた。行く手の木立の間から幾箇もの列車の箱が轟々《ぐわう/\》と通り過ぎ、もく/\と煙のかたまりが梢の上にたなびいてをるのを私は間近に見てゐて、そこの停車場を目指す自身の足の運びにも気づかず、芋畠のまはりの環《わ》のやうな同じ畦道《あぜみち》ばかり幾回もくる/\と歩き廻つてゐるのであつた。一種|蕭条《せうでう》たる松の歌ひ声を聞き乍ら。
[#地から2字上げ](昭和七年二月)



底本:「現代日本文學大系 49」筑摩書房
   1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行
   2000(平成12)年1月30日初版第13刷発行
初出:「中央公論」
   1932(昭和7)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:岡本ゆみ子
校正:林 幸雄
2009年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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