と、偶然、あの、十四歳の少年の自分が中学入学のをり父につれられてY町に出て行く途上で聞いた松の歌が此処《こゝ》でも亦《また》耳底に呼び起された。と、交互に襲ひ来る希望と絶望との前にへたばるやうな気持であつた。痛恨と苦しい空漠《くうばく》とがある。私はふいに歩調をゆるめたりなどして、今歩いて来た後方を遙《はるか》に振り向いて見たりした。――私が春のインバネスを羽織つてゐたことを修一から別れた妻が聞いたら、「おや/\、そないなお洒落《しやれ》をしとつたの、イヨウ/\」と、嘸《さぞ》かし笑ふであらう。そのはしやいだ賑やかな笑ひ、笑ふたびの三角な眼、鼻の頭の小皺、反歯《そつぱ》などが一ト時|瞳《ひとみ》の先に映り動いた。私は相手の幻影に顔を赧《あか》らめてにつこり笑ひかけた。私は修一に、「姉さんは、何うしてゐます? どこへ再婚しました? 今度は幸福ですか?」と、謙遜なほゝゑみを浮べて、打開いた、素直な心で一言尋ね得たらどんなによかつただらうにと思つた。彼女は、此頃やうやく新進作家として文壇の片隅に出てゐる私の、彼女と私との経緯《いきさつ》を仕組んだ小説も或は必定読んでをるにきまつてゐる。憎んで
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