ところない一ト色である。思想の進歩、道徳の進歩――何んにも無い。みんな子供の頃と同じではないか! と又しても今更のやうな驚嘆を以て、きよろ/\自分を見廻しながら電車通りへ歩いて行つた。電車の中に腰を掛け項《うなじ》を垂れて見ると、インバネスの裾前に二ヶ所も虫が小指大の穴を開けてゐるのに気づいた。あゝ惜しいことをした、と私は思はず呟《つぶや》いて手をのべてその穴に触つて見た。
 大手町で電車を降り、停留場前のバラック仮建築の内務省の門衛に訊き、砂利を踏んで這入《はひ》つて、玄関で竹草履に履《は》きかへてゐると、
「やあ」と誰やら、肩幅の広い、体格のがつしりした若者が、私の前に立ち塞《ふさ》がつて言つた。「兄さんですか?」
「えツ!」
 私は一瞬|慄毛《おぞけ》を振るつて後退《あとずさ》るやうにして面を振り立てた。とそこに、袖丈《そでたけ》の短い洋服からシャツのはみでた無骨な手に黒革の手提トランクを提げ、真新しい赤靴を穿《は》いて突つ立つてゐる男は、別れた妻の三番目の弟の修一ではないか。厚い唇を怖《おそ》ろしくぎゆツと噛み締めた顔を見ると、私は一も二もなく観念して眼を足もとに落した。二人は一寸の間無言で相対した。
「どうも済みません」と、私は存外度胸を据ゑて帽子を脱いで特別|叮嚀《ていねい》なお辞儀をして言つたが、さすがに声はおろ/\震へた。
「いや、もう、そんなことは過ぎたことですから」と修一は言下に打消したが、冠つたまゝの黒の中折の下の、眉間《みけん》の皺《しわ》は嶮《けは》しく、眼の剣は無気味に鋭かつた。「牛込のはうにいらつしやるさうですね。僕、昨年から横浜に来てゐます。こゝへは用事で隔日おきにやつて来ます」
 瞬《またゝ》きもせず修一は懐中から名刺を一枚抜いて出した。横浜市××町二ノ八、横浜メーター計量株式会社、としるしてある名刺を見詰めて私は、額に生汗をにじませ口をもぐ/\させてしどろもどろの受け答をしたが、何んとかして早く此場が逃げたくなつた。
「いづれ、後日お会ひして、ゆつくり話しませう。……今日は急ぐので」
「えゝ、どうぞ訪ねて来て下さい。僕も、ご迷惑でなかつたら上つてもいゝです。あなたには、いろ/\お世話になつてゐるので、一度お礼|旁々《かた/″\》お伺ひしようと思つてゐました」
 二人は会釈《ゑしやく》して玄関の突き当りで右と左とに別れた。給仕の少年に導かれて検閲課の室に入ると、柿のやうに頭の尖《と》がんだ掛員は私に椅子《いす》をすゝめて置いて、質素な鉄縁眼鏡に英字新聞を摺《す》りつけたまゝ、発禁の理由は風俗|紊乱《びんらん》のかどであることを告げて、極めて横柄な事務的の口調で忠告めいたことを言ひ渡した。私はたゞもう、わな/\慄《ふる》へながら、はあ、はあ、と頷いて聞き終ると一つお叩頭《じぎ》をして引き退つた。また修一に掴まりさうで、私は俯向いて廊下を小走り、外へ出ても傍目《わきめ》もふらず身体を傾けて舗道を急いだ。
 雑誌の盟主であるR先生の相模《さがみ》茅《ち》ヶ|崎《さき》の別荘に、その日同人の幹部の人達が闘花につめかけてゐるので、私は一刻も早く一部始終を報告しようと思つて、その足で東京駅から下り列車に乗つた。私は帽子を網棚に上げ、窓枠に肘《ひぢ》を凭《もた》せ、熱した額を爽《さは》やかな風に当てた。胸には猶苦しい鼓動が波立つてゐた。眼を細めて、歯を合せて、襲ひ寄るものを払ひ除けようとしてゐた。
 反《そり》の合はない数多い妻の弟達の中で、この修一だけは平生から私を好いてゐた。大震災の年に丁度上京してゐた私を頼つて修一も上京し、新聞配達をしつゝ予備校に通つてゐたが、神田で焼き出されて本郷の私の下宿に遁《のが》れて来た。火に迫られて下宿の家族と一しよに私が駒込西ヶ原へ避難する時、修一は私の重い柳行李《やなぎがうり》を肩に舁《かつ》いでくれたりした。私は修一の言葉遣や振舞の粗野を嫌ひ、それに私自身も貧乏だつたので、宥《なだ》めすかして赤羽から国へ発たせたが、汽車の屋根に腹伏せになつて帰つたといふ通知を受けたときは、私は彼を厄介視した無慈悲が痛く心を衝いた。修一は私が下宿の娘と大そう仲がいゝとか、着物の綻《ほころ》びを縫つて貰つてゐるとか妻に告口したので、間もなく帰国した私に、「独身に見せかけて、わたしに手紙を出させんといて、へん、みな知つちよるい!」と、妻は炎のやうな怨みを述べたのであつた。
 自分が妻や、妻の弟妹達に与へた打撃、あれほど白昼堂々と悪いことをして置いて、而《しか》も心から悪いと項垂《うなだ》れ恐れ入ることをしない私なのである。何んと言ふなつてない人間だらう? 現に先程修一にぶつかつた場合の、あの身構へ、あの白々しさ、あの鉄面皮と高慢――電気に触れたやうにさう思へた刹那《せつな》、私は悚然《しよ
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