うぜん》と身を縮め、わな/\打震へた。次から次と断片的に、疚《やま》しさの発作が浮いては沈み、沈んでは浮びしてゐるうちに、汽車は茅ヶ崎に着いた。
 息切れがするので海岸の別荘まで私は俥《くるま》に乗つて行つた。さまで広からぬ一室ではあるが、窓々のどつしりした絢爛《けんらん》な模様の緞子《どんす》のカーテンが明暗を調節した瀟洒《せうしや》な離れの洋館で、花に疲れた一同は中央の真白き布をしたテエブルに集まつて、お茶を飲み、点心《てんじん》をつまみ、ブランスウヰックのバナトロープとかいふ電磁器式になつてゐる蓄音機の華やかな奏楽に聞蕩《きゝと》れてゐた。私が入ると音楽は止んだ。私は眼をしよぼ/\させて事の成り行きを告げると、出し立ての薫《かを》りのいゝお茶を一杯馳走になつて直ぐ辞し去つた。そして松林の中の粉つぽい白い砂土の小径《こみち》を駅の方へとぼ/\歩いた。地上はそれ程でもないのに空では凄《すさま》じい春風が笞《むち》のやうにピユーピユー鳴つてゐる。高い松の枝がそれに格闘するかの如く合奏してゐた。私はハンカチーフで鼻腔《びかう》を蔽《おほ》ひながら松風の喧囂《けんがう》に心を囚へられてゐると、偶然、あの、十四歳の少年の自分が中学入学のをり父につれられてY町に出て行く途上で聞いた松の歌が此処《こゝ》でも亦《また》耳底に呼び起された。と、交互に襲ひ来る希望と絶望との前にへたばるやうな気持であつた。痛恨と苦しい空漠《くうばく》とがある。私はふいに歩調をゆるめたりなどして、今歩いて来た後方を遙《はるか》に振り向いて見たりした。――私が春のインバネスを羽織つてゐたことを修一から別れた妻が聞いたら、「おや/\、そないなお洒落《しやれ》をしとつたの、イヨウ/\」と、嘸《さぞ》かし笑ふであらう。そのはしやいだ賑やかな笑ひ、笑ふたびの三角な眼、鼻の頭の小皺、反歯《そつぱ》などが一ト時|瞳《ひとみ》の先に映り動いた。私は相手の幻影に顔を赧《あか》らめてにつこり笑ひかけた。私は修一に、「姉さんは、何うしてゐます? どこへ再婚しました? 今度は幸福ですか?」と、謙遜なほゝゑみを浮べて、打開いた、素直な心で一言尋ね得たらどんなによかつただらうにと思つた。彼女は、此頃やうやく新進作家として文壇の片隅に出てゐる私の、彼女と私との経緯《いきさつ》を仕組んだ小説も或は必定読んでをるにきまつてゐる。憎んでも憎み足りない私であつても八年の間|良人《をつと》と呼んだのだから、憎んでも憎《にく》み甲斐《がひ》なく、悪口言つて言ひ甲斐もないことなのである。失敗しないやう陰ながら贔屓《ひいき》に思つて念じてくれてゐるに違ひないのだ。たとひ肉体の上では別々になつてゐても一人の子供を、子を棄てる藪《やぶ》はあつても身を棄てる藪はないと言つて妻に逃げ出されて後は、ひとり冷たい石を抱くやうにして育つて行つてゐる子供を中にして、真先に思はれるものは、私の妻として、現在同棲の女でなく、初恋の雪子でもなく、久離切つて切れない静子であるのだから。いとし静子よ! と私は絶えて久しい先妻の本名を口に出して呼ぶのであつた。お前の永遠の良人は僕なのだから――と私は声をあげて叫び掛け、悲しみを哀訴し強調するのであつた。行く手の木立の間から幾箇もの列車の箱が轟々《ぐわう/\》と通り過ぎ、もく/\と煙のかたまりが梢の上にたなびいてをるのを私は間近に見てゐて、そこの停車場を目指す自身の足の運びにも気づかず、芋畠のまはりの環《わ》のやうな同じ畦道《あぜみち》ばかり幾回もくる/\と歩き廻つてゐるのであつた。一種|蕭条《せうでう》たる松の歌ひ声を聞き乍ら。
[#地から2字上げ](昭和七年二月)



底本:「現代日本文學大系 49」筑摩書房
   1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行
   2000(平成12)年1月30日初版第13刷発行
初出:「中央公論」
   1932(昭和7)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:岡本ゆみ子
校正:林 幸雄
2009年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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