セイションを捲き起しましたよ」と、泡立《あわだ》つビールのコップをかゝへた手を中間で波のやうに顫はせて香川は声高に笑つた。
 このセンセイションが私を微笑させた。雪子に思ひを寄せてゐたころ幼い香川が家に遊びに来るたび、私は叉可衛さん/\と言つて菓子などやつてゐたのに、何時の間にそんな外国語を遣ふやうになつたのか。見れば見る程、彼の顔は、あどけなく、子供々々してゐた。
 私は彼を酔はしてその間に何か話をさせようともして見た。
「あなたの叔母さん、雪子さんは、御達者ですか、御幸福ですか?」
 私は斯う口に出かゝる問ひを、下を向いてぐつと唾《つば》と一しよに呑み込み呑み込みし、時に疎《うと》ましい探るやうな目付を彼に向けた。恐らく香川は彼の叔母と私との不運な恋愛事件については何も知つてはゐないだらうに。
 年が明けて雑誌が廃刊された。私は雑誌の主幹R先生の情にすがり、社に居残つて生活費まで貰ひ、処方による薬を服《の》んで衰へた健康の養生に意を注いだ。そして暇にまかせて自叙伝を綴《つゞ》つた。描いて雪子への片思ひのところに及び、あの秋の祭に雪子の家に請待《しやうだい》を受けて、瀬戸の火鉢のふちをかゝへて立つと手から辷《すべ》り落ち灰や燠《おき》が畳いつぱいにちらばつた時の面目なさが新に思ひ出されては、あるに堪へなく、この五体が筒の中で搗《つ》き砕かれて消えたかつた。
「あツ、あツ」と、私は奇妙な叫び声を発して下腹を抑《おさ》へた。両手の十本の指を宙に拡げて机の前で暴れ騒いだ。
「何を気狂《きちが》ひの真似をなさるんです。えイ、そんな気狂ひの真似する人わたし大嫌ひ」
 片脇で針仕事をしてゐる女は憂欝に眉《まゆ》をひそめてつけ/\詰《なじ》つた。
「そんな真似をしてゐると、屹度《きつと》今に本物になりますよ」他の時かうも言つた。
 私は四十になり五十になつても、よし気が狂つても、頭の中に生きて刻まれてある恋人の家族の前で火鉢をこはした不体裁な失態、本能の底から湧出る慚愧《ざんき》を葬ることが出来ない。その都度、跳ね上り、わが体を擲《たゝ》き、気狂ひの真似をして恥づかしさの発情を誤魔化さうと焦《あせ》らずにはゐられないのである。この一小事のみで既に私を終生、かりに一つ二つの幸福が胸に入つた瞬間でも、立所にそれを毀損《きそん》するに十分であつた。
 満一年の後に雑誌が再刊され、私はふたゝび編輯に携はつた。矢張り同人組織ではあつても今度のはやゝ営利主義の相当な雑誌で、殆ど一人で営業方面まで受持つた私の多忙は、他人の想像をゆるさない程のものと言つてよかつた。編輯会議、執筆依頼状、座談会への人集め、焦躁、原稿催促、幹部の方の意見を聴いて編輯、兎角締切りののびのび、速達、電報、印刷所通ひ、へたくそ校正、職長さんとの衝突、写真製版屋の老人への厭味、三校を幹部の方に見ていたゞいて校了、製本屋を叱咤《しつた》、見本が出来た晩は一ト安心、十九日発売、依託雑誌の配本、返品受付、売捌元《うりさばきもと》集金、帳簿、電話――あれに心を配り、これに心を配り、愚な苦労性の私には、まるで昼が昼だか夜が夜だか分らなかつた。しかし私はてんてこ舞ひをし乍《なが》らも、只管《ひたすら》失業地獄に呻吟する人達に思ひ較《くら》べて自分を督励し、反面では眼に立つ身体の衰弱を意識して半ば宿命に服するやうな投遣《なげや》りな気持で働いた。
 五月号が市場に出てこゝ三四日は何程かの閑散を楽しまうとしてゐる夜、神楽坂署の刑事が来て、発売禁止の通達状をつきつけ、残本を差押へて行つた。私はひどく取り乱して警視庁へ電話で事の顛末《てんまつ》を訊《き》き合せたが、内務省へ出頭したらいゝとやらで、要領を得なかつた。つぎの日の朝私は女に吩咐《いひつ》けてトランクから取出させた春のインバネスを着て家を出た。春のインバネスは雑誌記者になりたて、古参の編輯同人の誰もが着てゐるので田舎ぽつと出の私は体面上是非着るべきものかと思つて月賦のやりくりで購《あがな》つたものだが、柄に不相応で極り悪く二三度手を通しただけで打つちやつてしまつてゐた。幾年かぶりで着て見ても、同じくそぐはない妙にテレ臭い感じである。行くうち不図《ふと》、この霜降りのインバネスを初めて着たをり編輯長に「君は色が黒いから似合はないね」と言はれて冷やツとした時の記憶が頭に蘇生《よみがへ》つた。と思ふと直に、先月或雑誌で私を批評して、ニグロが仏蘭西人《フランスじん》の中に混つたやうな、と嘲笑してあつた文字と思ひ合された。幼年、少年、青年の各時代を通じて免かれなかつた色の黒いひけ目が思ひがけぬ流転の後の現在にまで尾を曳《ひ》くかと淡い驚嘆が感じられた。今日に至つた己が長年月のあひだに一体何んの変化があつたであらう?
 禍《わざはひ》も悩みも昔と更に選ぶ
前へ 次へ
全15ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
嘉村 礒多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング