情喧嘩に数多《あまた》の歳月をおくつた。
 子供が七歳の春、私は余所《よそ》の女と駈落して漂浪の旅に出、東京に辿《たど》りついてさま/″\の難儀をしたすゑ、当時文運の所産になつたF雑誌の外交記者になつた。

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囚《とら》はれの醜鳥《しこどり》
罪の、凡胎の子
鎖は地をひく、闇をひく、
白日の、空しき呪《のろ》ひ……
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 酒好きの高ぶつた狂詩人は、斯《か》う口述して私に筆記をさせた。
「先生、凡胎の子――とは何ういふ意味でございませうか?」
 貧弱な徳利一本、猪口《ちよく》一箇を置いた塗りの剥げた茶餉台《ちやぶだい》の前に、褌《ふんどし》一つの真つ裸のまゝ仰向けに寝ころび、骨と皮に痩《や》せ細つた毛臑《けずね》の上に片つ方の毛臑を載せて、伸びた口髭《くちひげ》をグイ/\引つ張り/\詩を考へてゐた狂詩人は、私が問ふと矢にはに跳ね起き顎《あご》を前方に突き出し唇を尖《とが》らせて、「凡人の子袋から産れたといふことさ。馬の骨とも、牛の骨とも分らん。おいら下司下郎だといふことさ!」
 狂暴な発作かのやうにさう答へた時、充血した詩人の眼には零《こぼ》れさうなほど涙がぎら/\光つた。と咄嗟に、私にも蒼空の下には飛び出せない我身の永劫《えいごふ》遁《のが》れられぬ手械足枷《てかせあしかせ》が感じられ、堅い塊りが込み上げて来て咽喉《のど》もとが痞《つか》へた。
 ――鎖が地をひき闇をひきつゝ二十年が経つちまつた。囚はれに泣き、己が罪業に泣き、凡胎の子であることに泣き、そして、永い二十年の闇をひいて来た感じである。囚はれを出で、白日の広い世界をどんなにか思ひ続けて来たであらう! 囚はれのしこ[#「しこ」に傍点]鳥よ、汝《なんぢ》は空しき白日の呪ひに生きよ!――こんなふうの詩とも散文とも訳のわからない口述原稿を、馬糞《ばふん》の多い其処の郊外の路傍に佇《たゝず》んで読み返し、ふと気がつくと涙を呑んで、又午後の日のカン/\照つてゐる電車通りの方へ歩いて行くのであつた。そして私は、自分が記者を兼ね女と一しよに宿直住ひをさして貰つてゐる市内牛込の雑誌社に持ち帰つたことであつた。一九二八年の真夏、狂詩人が此世《このよ》を去つてしまつた頃から私の健康もとかく優《すぐ》れなかつた。一度クロープ性肺炎に罹《かゝ》り発熱して血痰《けつたん》が出たりした時、女が私に内証で国許《くにもと》に報じ、父が電報で上京の時間まで通知して来たが、出入りの執筆同人の文士たちに見窄《みすぼ》らしい田舎者の父を見せることを憂へて、折返し私は電報で上京を拒んだ。中学時代、脚絆草鞋《きやはんわらぢ》で寄宿舎へやつて来る父を嫌つたをり父が、オレで悪いといふのか、オレでは人様の手前が恥づかしいといふのか、われもオレの子ぢやないか、と腹を立てた時のやうに、病む子を遙々《はる/″\》見舞はうとして出立の支度を整へた遠い故郷の囲炉裏端《いろりばた》で、真赤に怒つてゐるのならまだしも、親の情を斥《しりぞ》けた子の電文を打黙つて読んでゐる父のさびしい顔が、蒲団の中に呻《うめ》いてゐる私の眼先に去来し、つく/″\と何処まで行つても不孝の身である自分が深省された。略《ほゞ》これと前後して故郷の妻は子供を残して里方に復籍してしまつた。それまでは同棲《どうせい》の女の頼りない将来の運命を愍《あはれ》み気兼ねしてゐた私は、今度はあべこべに女が憎くなつた。女のかりそめの娯楽をも邪慳《じやけん》に罪するやうな態度に出て、二人は絶間なく野獣同士のごと啀《いが》み合つた。凡てが悔恨といふのも言ひ足りなかつた。自制克己も、思慮の安定もなく、疲労と倦怠との在《あ》るがまゝに流れて来たのであつた。
 或年の秋の大掃除の時分、めつきり陽《ひ》の光も弱り、蝉《せみ》の声も弱つた日、私は門前で尻を端折り手拭で頬冠りして、竹のステッキで畳を叩いてゐた。其処へ、まだまるで紅顔の少年と言ひたいやうな金釦《きんボタン》の新しい制服をつけた大学生が、つか/\と歩み寄つて、
「あなたは、大江さんでせう?」と、問ひかけた。
「……」私は頬冠りもとかずに、一寸顔を擡《もた》げ、きよとん[#「きよとん」に傍点]と大学生の顔を視上げた。「あなたは、どなたでせうか?」
「僕、香川です。四月からW大学に来てゐます。前々からお訪ねしようと思つてゐて、ご住所が牛込矢来とだけは聞いてゐましたけれども……」
「香川……あ、叉可衛《さかゑ》さんでしたか。ほんとによく私を覚えてゐてくれましたねえ」
 私はすつかり魂消《たまげ》てしまつた。香川は私の初恋の娘雪子の姉の子供であつた。私は大急ぎで自分の室を片附け、手足を洗つて香川を招じ上げた。そして近くの西洋料理店から一品料理など誂《あつら》へ、ビールを抜いて歓待した。彼の
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