顔の綺麗《きれい》なのに驚いた私は、姉のニッケルの湯籠《ゆかご》の中の軽石を見つけ、屹度これで磨くのに違ひないと思ひ定め、湯殿に入つて顔一面をこすると、皮膚を剥《む》いて血がにじみ出た。
「あんたはん、そや、キビスをこする石やつたのに、まア、どうしようかいの」
見るも無惨な凸凹《でこぼこ》の瘡蓋《かさぶた》になつた私の顔に姉は膏薬《かうやく》を塗つてくれながらへんな苦が笑ひをした。私は鏡を見て明け暮れ歎き悲しんだのであつた。
不思議にこゝ一二年、心を去つてゐた色の黒い悩みが、不意に伊藤の言葉によつてその古傷が疼《うづ》き出した。私は教室の出入りに、廊下の擦《す》り硝子《ガラス》に顔を映すやうになつた。ちやうど顔ぢゆうに面皰《にきび》が生じ、自習室の机に向いても指で潰してばかりゐて、気を奪はれ全然勉強が手につかなくなつた。その頃、毎日のやうに新聞に出る、高柳こう子といふ女の発明で(三日つけたら色白くなる薬)といふ広告を読み、私は天来の福音《ふくいん》と思つて早速東京へ送金した。ところが、日ならず届いた小包が運わるく舎監室に押収され、私は川島先生に呼びつけられた。
「君、これはどうした? 色白くなる薬……」
川島先生は、つぶれた面皰から血を吹いてゐる私の顔を、きびしい目付で見詰めた。
「そ、それは母のであります」
「お母さんのなら、何故《なぜ》、舎から註文した?」
「お父さんに隠したいから、日曜日に持つて帰つてくれちうて母が言ひました……」
先生は半信半疑で口尻を歪《ゆが》めて暫《しば》し考へてゐたが、兎も角渡してくれた。私はいくらか日を置いて小包を開き、用法の説明書どほり粉薬を水に溶き、人に内証で朝に晩につけた。色こそ白くはならなかつたが、面皰のはうには十分|効目《きゝめ》があつた。川島先生の何時も私の顔にじろじろと向けられる神経質な注視に逢《あ》ふ度、私はまんまと瞞《だま》したことに気が咎《とが》め、何か剣の刃渡りをしてゐるやうな懼《おそ》れが身の毛を総立たせた。
天長節を控へ舎を挙げて祝賀会の余興の支度《したく》を急いでゐる時分、私と小学校時代同級であつた村の駐在巡査の息子が、現在は父親が署長を勤めてゐる要塞地の町の中学から転校して寄宿舎に入つて来た。前歯の抜けた窪《くぼ》い口が遙《はる》か奥に見えるくらゐ半島のやうに突き出た長い頤《あご》、眼は小さく、額には幾条もの太い皺《しわ》が寄り、老婆そのまゝの容貌をしてゐたので、入舎早々ばア様といふ綽名《あだな》がついた。ばア様といふ綽名は又|如何《いか》にもそのこせ/\した性情をよく象徴してゐて、実に小言好きの野卑な男で、私の旧悪を掘り出して人毎に曝《あば》くことを好んだ。黒坊主黒坊主と言つて私を嘲弄《てうろう》したことを、それから私が黒坊主と言ひそやされる反動で、奇妙な病気から鼻の両脇《りやうわき》に六つの小鼻が鈴生《すずなり》に累結してゐる子供を鼻六ツ々々々と言つて泣かせ、その弱味につけこみ覗《のぞき》メガネの絵など高価に売りつけたり、学用品を横領したりしたことを。猶《なほ》又、駄菓子屋の店先に並んだ番重の中から有平糖《あるへいたう》を盗み取る常習犯であつたことまで数へ立てて、私を、ぬすツと、と言つて触れ廻つた。さうした私の悪意を極《きは》めた陰口と見え透いたお世辞とによつて彼は転校者として肩身の狭い思ひから巧に舎内の獰猛組《だうまうぐみ》に親交を求め、速《すみやか》に己が位置を築くことに汲々《きふ/\》としてゐた。ばア様は私の室の前を、steal, stole, stolen と声高《こわだか》に言つて通つて行く。私は無念の唇を噛み緊《し》め乍《なが》らも、のさばるばア様を何《ど》うしようもなく、たゞ/\おど/\した。無暗《むやみ》にあわてた。折りも折、舎内で時計やお鳥目《てうもく》の紛失が頻々《ひん/゜\》と伝はつた。私は消え入りたい思ひであつた。泥棒の噂《うはさ》の立つ毎に、ひよつとして自分の本箱や行李《かうり》の中に、ポケットなどに他人の金入れが紛れこんではゐないか、夜|臥床《とこ》をのべようと蒲団をさばく時飛び出しはしないか、と戦々兢々《せん/\きよう/\》とした。正しいことをすればする丈《だけ》、言へば言ふ丈、その嫌疑《けんぎ》を免かれる方便の如く思ひ做《な》された。冬期休業が来て舎生が帰省の旅費を下附された晩、七八人もの蝦蟇口《がまぐち》が誰かの手で盗まれ、たうとう町の警察から来て、どうしても泥棒は舎内のものだといふ鑑定で、一課目残つてゐる翌日の試験中に三人の刑事は小使や門衛を手伝はして各室の畳まで上げて調べ、続いて試験場から帰つて来た一人々々を食堂の入口でつかまへ、制服を脱がせ靴を脱がせして調べた。私の番になるとばア様は二三の仲間を誘ひ、意味ありげに
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