陰険な視線と薄笑ひとを浴びせ乍ら、私の前を行きつ戻りつした。強《し》ひて心を空《むな》しうしようとすれば、弥《いや》が上に私の顔容はひずみ乱れた。が、逐一犯罪は検挙され、わツといふ只《たゞ》ならぬ泣声と共に、私たちは食事の箸を投げて入口に押しかけると、東寮の或三年生が刑事の前に罪状を告白して泣き伏してゐた。私は自分が刺されたやうに胸が痛んで、意識が朦朧《もうろう》と遠くなつた。
人もあらうに、どうしてか、其頃から伊藤はばア様と親しく交はり出した。従来伊藤の気づいてない私の性分をばア様が一つ/\拾ひ立てて中傷に努めてゐた矢先、藩主の祖先を祀《まつ》つた神社の祭に全校生が参拝した際、社殿の前で礼拝の最中石に躓いてよろめいた生徒を皆に混つてくツ/\笑つた私を、後で伊藤がひどく詰《なじ》つた。これと前後して、二人で川に沿うた片側町を歩いてゐた時、余所《よそ》の幼い子供が玩具の鉄砲の糸に繋《つな》がつたコルクの弾丸で私を撃つたので、私が怒つてバカと叱ると、伊藤は無心の子供に対する私のはした無い言葉を厭《いと》うて、「ちえツ、君には、いろ/\イヤなところがある」と、顔を真赤にして頬をふくらませて下を向いた。そして、それまでは並んで歩いてゐた彼は、柳の下につい[#「つい」に傍点]と私を離れ、眉を寄せて外方《そつぽ》を見詰め口笛を吹き出した。
日増に伊藤は私から遠去り、さうした機会に、ばア様はだん/\伊藤を私の手から奪つて行つて、完全に私を孤立せしめた。思ふと一瞬の目叩《またゝ》きの間に伊藤は私に背向《そむ》いたのであつた。私は呆《あき》れた。この時ばかりは私は激憤して伊藤の変節を腹の底から憎んだ。私は心に垣を張つて決して彼をその中に入れなかつた。避け合つても二人きりでぱつたり出逢ふことがあつたが、二人とも異様に光つた眼をチラリと射交《いかは》し、あゝ彼奴は自分に話したがつてゐるのだなア、と双方で思つても露《あらは》に仲直りの希望を言ふことをしなかつた。私はやぶれかぶれに依怙地《いこぢ》になつて肩を聳《そび》やかして己が道を歩いた。
長い間ごた/\してゐた親族の破産が累を及ぼして、父の財産が傾いたので、三年生になると私は物入りの多い寄宿舎を出て、本町通りの下駄屋の二階に間借りした。家からお米も炭も取り寄せ、火鉢《ひばち》の炭火で炊《た》いた行平《ゆきひら》の中子《しん》のできた飯を噛《か》んで食べた。自炊を嫌《きら》ふ階下の亭主の当てこすりの毒舌を耳に留めてからは、私はたいがい乾餅《ほしもち》ばかり焼いて食べてゐた。階下の離座敷を借りてゐる長身の陸軍士官が、毎朝サーベルの音をガチヤンと鳴らして植込みの飛石の上から東京弁で、「行つて参ります」と活溌な声をかけると、亭主は、「へえ、お早うお帰りませ」と響の音に応ずる如く言ふのであつた。私は教科書を包んだ風呂敷包みを抱《かゝ》へて梯子段《はしごだん》を下り、士官の音調《アクセント》に似せ、「行つて参ります」と言ふと、亭主は皮肉な笑ひを洩しながら、「へえ」と、頤《あご》で答へるだけだつた。私は背後に浴びせる亭主はじめ女房や娘共の嘲笑が聞えるやうな気がした。仄暗《ほのぐら》いうちに起きて家人の眼をかくれ井戸端でお米を磨《と》いだりして、眠りの邪魔をされる悪口ならまだしも、私が僻《ひが》んで便所に下りることも気兼ねして、醤油壜《しやうゆびん》に小便を溜《た》めて置きこつそり捨てることなど嗅ぎ知つて、押入を調べはすまいかを懸念《けねん》した。誰かそつと丼《どんぶり》や小鍋《こなべ》の蓋《ふた》を開けて見た形跡のあつた日は、私はひどく神経を腐らした。そこにも、こゝにも、哀れな、小さい、愚か者の姿があつた。と言つても、背に笞《むち》してひたすら学業にいそしむことを怠りはしなかつた。
俄然、張り詰めた心に思ひもそめない、重い/\倦怠《けんたい》が、一時にどつと襲ひかゝつた。恰《あたか》もバネが外れて運動を止めたもののやうに、私は凡てを投げ出し無届欠席をした。有らゆる判断を除外した。放心の数日を過した。
私は悄々《しを/\》と村の家に帰つて行き、学校を退くこと、将来稼業を継いで百姓をするのに別段中学を出る必要はないこと、家のものと一しよに働きたいと言つた。
父と母と縁側に腰かけて耳に口を当て合ふやうにし何かひそ/\相談をした。
「左様《さう》してくれるんか。えらい覚悟をしてくれた。何んせ、学問よりや、名誉よりや、身代が大切ぢやで、えゝとこへ気がついた」と父が言つた。所帯が苦しいゆゑの退学などとの風評を防ぐ手だてに、飽《あく》まで自発行動であることを世間に言ふやうにと父は言ひ付けた。
半生の間に、母が私の退校当座の短時日ほど、私を劬《いたは》り優しくしてくれたためしはなかつた。母はかね/″\私を学校か
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