潤んだ涼しい眼や、口尻のしまつた円顔やに雪子の面影を見出して、香川を可愛ゆく思ひ、また夢見るやうな儚《はかな》い心地で、私は遠い過去の果しない追憶に耽《ふけ》るのであつた。
 私がY町で女と駈落ちしようとして、旅行案内を買ひに町の広小路の本屋に行くと、春のショールを捲き、洋傘をかゝへた蒼ざめた雪子が、白い腕をのべて新刊の婦人雑誌の頁《ページ》をめくつてゐるのに出逢つた。――彼女は私の結婚後一二年は独身でゐた。家が足軽くらゐのため、農家には向かず、なか/\貰ひ手がなかつた。雪子の父の白鬚《しろひげ》の品の好いお爺さんは、「頼んでも大江へ貰うて貰へばよかつたのに」と、残念がつてゐるとのことを私は人伝《ひとづて》に聞いた。後、海軍の兵曹の妻になつてH県のK軍港の方に行き難儀してゐるらしかつたが、病気に罹《かゝ》つて実家に帰りY町の赤十字病院に入院してゐるといふ噂であつた。その頃私は妻子を村に残してY町で勤めをしてゐたが、一日父が私のもとに来て、「あの娘は肺病ぢやげな。まあ、ウチで貰はんでよかつた」と私に言つた。その時は既に、私は妻も子供も家も棄《す》て去る決心でゐたので、ひどく父を気の毒に思つて言ひ知れぬ苦しい吐息をついた。帰りがけに父は町の時計屋で蔓《つる》の細い銀縁の眼鏡を私に買つてくれた。――それから約《およ》そ一週日を経ていよ/\決行の日、思ひ設けず雪子に邂逅《かいこう》したわけである。二人はちら[#「ちら」に傍点]と視線を合せたが、彼女の方が先に眼を伏せた。私はあわてて店頭を逃げ、二三の買物を取纏《とりまと》め、裏通りから停車場の方へ、小石を洗ふやうにして流れてゐる浅い流れの川土手の上を歩いた。疎《まば》らに並んだ古い松が微風に緩《ゆる》やかにざわめいてゐた。突如、不思議と幾年か昔中学に入るとき父につれられて歩いた長い松原の、松の唸《うな》りが頭の中に呼び返された。さうして今、父も、祖先伝来の山林田畠も、妻子も打棄てて行く我身をひし/\と思つた。と頭を上げると、一筋道の彼方からパラソルをさした雪子がこちらに近づいて来てゐた。今度は双方でほゝゑみを交はしてお叩頭《じぎ》をした。「何ゆゑ、わたしを貰つて下さいませんでした?」といふ風の眼で面窶《おもやつ》れた弱々しい顔をいくらか紅潮させて私を視た。行き違ふと私は又俯向いた。私は妻を愛してないわけではなく、彼女が実家に
前へ 次へ
全30ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
嘉村 礒多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング