下女が善意に私を庇《かば》うて一言何か口を挟むと母が顔を曇らせぷり/\怒つて、「いゝや、あの子は産れ落ちるとから色が黒かつたい。あれを見さんせ、頸《くび》のまはりと来ちや、まるきり墨を流したやうなもん。日に焼けたんでも、垢《あか》でもなうて、素地《きぢ》から黒いんや」と、なさけ容赦もなく言ひ放つた。その時の、魂の上に落ちた陰翳《いんえい》を私は何時までも拭ふことが出来ない。私は家のものに隠れて手拭につゝんだ小糠《こぬか》で顔をこすり出した。下女の美顔水を盗んで顔にすりこんだ。朝、顔を洗ふと直ぐ床の間に据ゑてある私専用の瀬戸焼の天神様に、どうぞ学問が出来ますやうと祈願をこめるのが父の言付けであつたが、私は、どうぞ今日一日ぢゆう色の黒いことを誰も言ひ出しませんやう、白くなりますやう、と拍手《かしはで》を打つて拝んだ。一日は一日とお定りの祷《いの》りの言葉に切実が加はつた。小学校で学問が出来て得意になつてゐる時でも、黒坊主々々々と呼ばれると、私の面目は丸潰《まるつぶ》れだつた。私は色の白い友達にはてんで頭が上らなかつた。黒坊主黒坊主と言はないものには、いゝ褒美《ほうび》を上げるからと哀願して、絵本とか石筆とかの賄賂《わいろ》をおくつた。すると、僕にも呉《く》れ、僕にも出せ、と皆は私を取り囲んで八方から手を差出した。私は家のものを手当り次第盗んで持ち出して与へたが、しまひには手頃の品物がなくなつて約束が果されず、嘘言ひ坊主といふ綽名《あだな》を被《かぶ》せられた。私は人間の仕合せは色の白いこと以上にないと思つた。扨《さて》はませた小娘のやうに水白粉《みづおしろい》をなすりつけて父に見つかり、父は下司《げす》といふ言葉を遣つて叱つた。なんでも井戸浚《さら》への時かで、庭先へ忙しく通りかゝつた父が、私の持出してゐた鍬《くは》に躓《つまづ》き、「あツ痛い、うぬ黒坊主め!」と拳骨を振り上げた。私は赫《かつ》とした。父は私が遊び仲間から黒坊主と呼ばれてゐることを知つてゐたのだ。私は気も顛倒《てんたう》して咄嗟《とつさ》に泥んこでよごれた手で鍬を振り上げ、父の背後に詰寄つて無念骨髄の身がまへをした。その日は出入りの者も二三人手伝ひに来て、終日裏の大井戸の井戸車がガラガラと鳴り、子供ながらに浮々してゐたのに、私はすつかりジレて夕飯も食べなかつた。夏休みになつて町の女学校から帰つて来た姉の
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