》ら、相好《さうがう》を崩《くづ》した笑顔で愛弟子《まなでし》の成功を自慢した。
「ウヽ、この中で、誰が第二の芳賀になる? ウヽ、誰ぢや?」
 教室を出ると私は伊藤の傍に走り寄つて、
「伊藤君、先生は君の顔を見た、たしかに見た、第二の芳賀に君は擬せられとる!」と私は息を弾《はづ》ませて言つた。
「ちよツ、馬鹿言ふな、人に笑はれるぜ、お止《よ》しツ」と伊藤は冠《かぶ》せるやうに私を窘《たしな》めた。
 私は中学を出れば草深い田舎に帰り百姓になる当てしかない。もう自分などはどうでもいゝから、と私は心で繰返した。幾年の後、軍人志望の伊藤の、肩に金モールの参謀肩章を、胸に天保銭を、さうした彼の立身出世のみが胸に宿つて火のやうに燃えた。時として遠い彼方《かなた》のそれが早くも今実現し、中老の私は山の家で、峡谷のせゝらぎを聞き、星のちらつく空を仰ぎ、たゞ曾《かつ》ての親友の栄達に満悦し切つてゐるやうな錯覚を教室の机で起しつゞけた。ふと我に返つて伊藤が英語の誤訳を指摘されたりした場合、私の心臓はしばし鼓動をやめ、更に深く更にやるせない一種の悲壮なまでの焦燥《せうさう》が底しれず渦巻《うづま》くのであつた。

「君は黒い、頸筋なんぞ墨を流したやうなぞ」
と言つて伊藤は私の骨張つた頸ツ玉に手をかけ、二三歩後すさりに引つ張つた。私の衷《うち》を幽《かす》かな怖《おそ》れと悲しみが疾風のごとく走つた。
「僕も黒いか? ハツハヽヽ」
 畳みかけて伊藤は真率に訊《き》いた。相当黒いはうだと思つたが、いや、白い、と私は嘘《うそ》を吐《つ》いた。
 毫《がう》も成心があつてではないが、伊藤は折ふし面白半分に私の色の黒いことを言つてからかつた。それが私の不仕合せなさま/″\の記憶を新にした。多分八九歳位の時代のことであつた。私の一家は半里隔つた峠向うに田植に行つた。水田は暗い低い雲に蔽はれて、蛙も鳴かず四辺は鎮まつてゐた。母がそこの野原に裾《すそ》をまくつて小便をした。幼い妹が母にむづかつてゐた。その場の母の姿に醜悪なものを感じてか父は眉をひそめ、土瓶《どびん》の下を焚《た》きつけてゐた赤い襷《たすき》がけの下女と母の色の黒いことを軽蔑《けいべつ》の口調で囁《さゝや》き合つた。妹に乳をふくませ乍ら破子《わりご》の弁当箱の底を箸《はし》で突つついてゐた母が、今度は私の色の黒いことを出し抜けに言つた。
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