が、でも、おあしをくづす前に、一應Z・K氏にお禮を言ふ筋合のものだと氣が附いて、私はその足で見附から省線に乘つた。
 私がZ・K氏を知つたのは、私がF雜誌の編輯に入つた前年の二月、談話原稿を貰ふために三宿を訪ねた日に始まつた。
 其日は紀元節で、見窄《みすぼ》らしい新開街の家々にも國旗が飜《ひるがへ》つて見えた。さうした商家の軒先に立つて私は番地を訪ねなどした。二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四疊半の茶呑臺《ちやぶだい》の前に坐つて、髮の伸びたロイド眼鏡のZ・K氏は、綿の食《は》み出た褞袍《どてら》を着て前跼《まへかゞ》みにごほん/\咳き乍ら、私の用談を聞いた。玄關の二疊には、小説で讀まされて舊知の感のある、近所の酒屋の爺さんの好意からだと言ふ、銘酒山盛り[#「山盛り」に傍点]の菰冠《こもかぶ》りが一本据ゑてあつて、赤ちやんをねんねこに負ぶつた夫人が、栓をぬいた筒口から酒をぢかに受けた燗徳利を鐵瓶につけ、小蕪《こかぶ》の漬物、燒海苔など肴《さかな》に酒になつた。
 やがて日が暮れ體中に酒の沁みるのを待つて、いよいよこれから談話を始めようとする前、腹こしらへにと言つ
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
嘉村 礒多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング