足相撲
嘉村礒多
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蝦蟇口《がまぐち》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|佇《たゝず》んで、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)山盛り[#「山盛り」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごほん/\咳き乍ら、
−−
S社の入口の扉を押して私は往來へ出た。狹い路地に入ると一寸|佇《たゝず》んで、蝦蟇口《がまぐち》の緩んだ口金を齒で締め合せた。心まちにしてゐた三宿《みしゆく》のZ・K氏の口述になる小説『狂醉者の遺言』の筆記料を私は貰つたのだ。本來なら直に本郷の崖下の家に歸つて、前々からの約束である私の女にセルを買つてやるのが人情であつたがしかし最近或事件で女の仕草をひどく腹に据ゑかねてゐた私は、どう考へ直しても氣乘りがしなくて、ただ漫然と夕暮の神樂坂《かぐらざか》の方へ歩いて行つた。もう都會には秋が訪れてゐて、白いものを着てゐる自分の姿が際立つた寂しい感じである。ふと坂上の眼鏡屋の飾窓を覗くと、氣にいつたのがあつて餘程心が動いたが、でも、おあしをくづす前に、一應Z・K氏にお禮を言ふ筋合のものだと氣が附いて、私はその足で見附から省線に乘つた。
私がZ・K氏を知つたのは、私がF雜誌の編輯に入つた前年の二月、談話原稿を貰ふために三宿を訪ねた日に始まつた。
其日は紀元節で、見窄《みすぼ》らしい新開街の家々にも國旗が飜《ひるがへ》つて見えた。さうした商家の軒先に立つて私は番地を訪ねなどした。二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四疊半の茶呑臺《ちやぶだい》の前に坐つて、髮の伸びたロイド眼鏡のZ・K氏は、綿の食《は》み出た褞袍《どてら》を着て前跼《まへかゞ》みにごほん/\咳き乍ら、私の用談を聞いた。玄關の二疊には、小説で讀まされて舊知の感のある、近所の酒屋の爺さんの好意からだと言ふ、銘酒山盛り[#「山盛り」に傍点]の菰冠《こもかぶ》りが一本据ゑてあつて、赤ちやんをねんねこに負ぶつた夫人が、栓をぬいた筒口から酒をぢかに受けた燗徳利を鐵瓶につけ、小蕪《こかぶ》の漬物、燒海苔など肴《さかな》に酒になつた。
やがて日が暮れ體中に酒の沁みるのを待つて、いよいよこれから談話を始めようとする前、腹こしらへにと言つ
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
嘉村 礒多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング