だ》ちがた/\と戰慄を覺えるのだつた。
しかし遂には其日が來た。
圭一郎は中學二年の時柔道の選手であることから二級上の同じく選手である山本といふ男を知つた。眼のつつた、唇の厚い、鉤鼻《かぎばな》の山本を圭一郎は本能的に厭がつた。上級對下級の試合の折、彼は山本を見事投げつけて以來、山本はそれをひどく根にもつてゐた。或日寄宿舍の窓から同室の一人が校庭で遊ぶ誰彼の顏を戲《たはむ》れにレンズで照してゐると、光線が山本の顏を射たのであつた。翌日山本はその惡戲《いたづら》した友が誰であるかを打明けろと圭一郎に迫つたが彼が頑《かたく》なに押默つてゐると山本は圭一郎の頬を平手で毆りつけた。――その山本と咲子は二年の間も醜關係を結んでゐたのだといふことを菩提寺《ぼだいじ》の若い和尚から聞かされた。憤りも、恨みも、口惜しさも通り越して圭一郎は運命の惡戲《いたづら》に呆れ返つた。しかもこの結婚は父母が勸めたといふよりも自分の方が寧ろ強請《せが》んだ形にも幾らかなつてゐたので、誰にぶつかつて行く術《すべ》もなく自分が自身の手負ひで蹣跚《よろけ》なければならなかつた。そして一日々々の激昂の苦しさはたゞ惘然《まうぜん》と銷沈のくるしさに移つて行つた。
圭一郎は其後の三四年間を上京して傷いた心を宗教に持つて行かうとしたり慰めのための藝術に縋《すが》らうとしたり、咲子への執着、子供への煩惱《ぼんなう》を起して村へ歸つたり、又厭氣がさして上京したり、激しい精神の動搖から生活は果しもなく不聰明に頽廢《たいはい》的になる許りであつた。斯うした揚句圭一郎はY町の縣廳に縣史編纂員として勤めることになり、閑寂な郊外に間借して郷土史の研究に心を紛《まぎ》らしてゐたのだが、そして同じ家の離れを借りて或私立の女學校に勤めてゐた千登世と何時しか人目を忍んで言葉を交へるやうになつた。
千登世の故郷は中國山脈の西端を背負つて北の海に瀕した雪の深いS縣のH町であつた。彼女は産みの兩親の顏も知らぬ薄命の孤兒であつて、伯父や伯母の家に轉々と引き取られて育てられたが、身内の人達は皆な揃ひも揃つて貪婪《どんらん》で邪慳《じやけん》であつた。十四歳の時伯父の知邊《しるべ》である或る相場師の養女になつてY町に來たのであつた。相場師夫婦は眞の親も及ばない程千登世を慈《いつくし》んで、彼女の望むまゝに土地の女學校を卒業さした上更に臨時教員養成所にまで進學さしてくれたのだが、業|半《なかば》でその家が經濟的に全く崩壞してしまひ、軈《やが》て養父母も相次いで世を去つてしまつたので、彼女は獨立しなければならなかつた。
さうして薄倖の千登世と圭一郎とが互ひに身の上を打明けた時、二人は一刻も猶豫して居られず忽ち東京に世を憚《はゞか》らねばならぬ仲となつた。
千登世はさすがに養父母の恩惠を忘れ兼ねた。わけても彼女に優しかつた相場師の臨終を物語つてはさめ/″\と涙をこぼした。寒い霰《あられ》がばら/\と板戸や廂《ひさし》を叩き、半里許り距離の隔つてゐる海の潮鳴が遙かに物哀しげに音づれる其夜、千登世は死人の體に抱きついて一夜を泣き明したことを繰返しては、人間の浮生の相を哀しみ、生死のことわりを諦めかねた。彼女はY町の偏邊《かたほとり》の荒れるに委せた墳墓のことを圭一郎が厭がる程|屡《しば/\》口にした。まだ新しい石塔を建ててなかつたこと、二三本の卒塔婆《そとば》が亂暴に突きさゝれた形ばかりの土饅頭にさぞ雜草が生ひ茂つてゐるだらうことを氣にして、窃《そ》つと墓守に若干のお鳥目《てうもく》を送つてお墓の掃除を頼んだりした。
千登世の無常觀――は過去の閲歴から育《はぐく》まれたのだつた。時折りその感情が潮流のやうに一時に彼女に歸つて來ては彼女をくるしめた。校正で據《よんどころ》なく歸りの遲くなつた夜など、電車の送迎に忙しいひけ時から青電車の時刻も迫つて絶間々々にやつて來る電車を、一臺送つては次かと思ひ、又一臺空しく送つては次かと思ひ、夜更けの本郷通は鎭まつて、鋪道の上の人影も絶えてしまふその頃まで猶《なほ》も一徹に圭一郎の歸りを今か/\と待ちつゞけずにはゐられない千登世の無常觀は到底圭一郎などの想像もゆるさない計り知れない深刻なものであつた。
次の日の午前中に圭一郎は主人に命じられた丈の仕事は一氣に片付けて午後は父と妹とに宛て長い手紙を書き出した。
「僕は幾ら非人間呼ばはりをされようと不孝者の謗《そし》りを受けようと更に頭はあがらないのです。けれども千登世さんだけはわるく思つて下さいますな。何が辛いといつても一番辛いことはお父さんや春子に彼女が惡者の如く思はれることです。然《さ》う思はれても僕のこの身に罰が當ります。僕の身に立つ瀬がないのですから」斯うした意味のことを疊みかけ疊みかけ書かうとした。
圭一郎はこれまで幾回も同じ意味のことを、千登世に不憫《ふびん》をかけて欲しいといふことを父にも妹にも書き送つたが、どうにも抽象的にしか書けない程自分自身が疚《やま》しかつた。
生活の革命――さういふ文字が齎《もたら》す高尚な内容が圭一郎の今度の行爲の中に全然皆無だといふのではなく、寧ろさうしたものが多量に含まれてあると思ひたかつた。が、靜かに顧みて自問自答する時彼は我乍ら唾棄の思ひがされ冷汗のおのづと流れるのを覺えた。
妻の過去を知つてからこの方、圭一郎の頭にこびりついて須臾《しゆゆ》も離れないものは「處女」を知らないといふことであつた。村に居ても東京に居ても束の間もそれが忘れられなかつた。往來で、電車の中で異性を見るたびに先づ心に映るものは容貌の如何ではなくて、處女だらうか? 處女であるまいか? といふことであつた。あはよくば、それは奇蹟的にでも闇に咲く女の中にさうした者を探し當てようとあちこちの魔窟を毎夜のやうにほつつき歩いたこともあつた、縱令《よし》、乞丐《こじき》の子であつても介意《かま》ふまい。假令《たとへ》獄衣を身に纒ふやうな恥づかしめを受けようと、レエイプしてもとまで屡思ひ詰めるのだつた。
根津の下宿に居たある年の夏の夜、圭一郎は茶の間に招かれて宿のをばさんと娘の芳ちやんと二人で四方山《よもやま》の話をした。キヤツキヤツ燥《はしや》いでゐた芳ちやんは間もなく長火鉢の傍に寢床をのべて寢てしまつた。暑中休暇のことで階上も階下もがら空きで四邊はしんと鎭まつてゐた。忽ち足をばた/\させて蒲團を蹴とばした芳ちやんは眞つ白な兩方の股を弓のやうに踏張つた。と、つ…………………みたいなものが瞥《ちら》と圭一郎の眼に這入つた。
「あら、芳ちやん厭だわ」
をばさんは急いで蒲團をかけた。圭一郎は赧《あか》らむ顏を俯向《うつむ》いて異樣に沸騰《たぎ》る心を抑へようとした。をばさんさへ居なかつたらと彼は齒をがた/\顫《ふる》はした。彼の頭に蜘蛛が餌食を卷き締めて置いて咽喉を食ひ破るやうな殘忍的な考が閃めいたのだ。
斯うした獸的な淺間しい願望の延長――が千登世の身體にはじめて實現されたのであつた。彼は多年の願ひがかなへられた時、最早前後を顧慮する遑《いとま》とてもなく千登世を拉《らつ》し去つたのであるが、それは合意の上だと言へば言へこそすれ、ゴリラが女を引浚《ひつさら》へるやうな慘虐な、ずゐぶん兇暴なものであつた。もちろん圭一郎は千登世に對して無上の恩と大きな責任とを感じてゐた。飛んで灯に入る愚な夏の蟲にも似て、彼は父の財産も必要としないで石に齧《かじ》りついても千登世を養ふ決心だつた。が、自分ひとりは覺悟の前である生活の苦鬪の中に羸弱《ひよわ》い彼女までその渦の中に卷きこんで苦勞させることは堪へ難いことであつた。
圭一郎は、父にも、妹にも、誰に對しても告白のできぬ多くの懺悔を、痛みを忍んで我と我が心の底に迫つて行つた。
結局、故郷への手紙は思はせ振りな空疎な文字の羅列に過ぎなかつた。けれども一國《いつこく》な我儘者の圭一郎に傅《かしづ》いて嘸々《さぞ/\》氣苦勞の多いことであらうとの慰めの言葉を一言千登世宛に書き送つて貰ひたいといふことだけはいつものやうに冗《くど》く、二伸としてまで書き加へた。
圭一郎が父に要求する千登世への劬《いたは》りの手紙は彼が請ひ求めるまでもなくこれまで一度ならず二度も三度も父は寄越したのであつた。父は最初から二人を別れさせようとする意志は微塵も見せなかつた。別れさしたところで今さらをめ/\村に歸つて自家の閾《しきゐ》が跨がれる圭一郎でもあるまいし、同時に又千登世に對して犯した我子の罪を父は十分感じてゐることも否《いな》めなかつた。鼎《かなへ》の湯のやうに沸き立つ喧《やかま》しい近郷近在の評判や取々の沙汰に父は面目ながつて暫らくは一室に幽閉してゐたらしいが其間も屡便りを送つて來た。さま/″\の愚痴もならべられてあるにしても、何うか二人が仲よく暮らして呉れとかお互に身體さへ大切にして長生してゐれば何時か再會が叶ふだらうとか、其時はつもる話をしようとか書いてあつた。そして定《きま》つたやうに「何もインネンインガとあきらめ居候」として終りが結んであつた。時には思ひがけなく隣村の郵便局の消印で爲替が封入してあることも度々だつた。村の郵便局からでは顏|馴染《なじみ》の局員の手前を恥ぢて、杖に縋《すが》りながら二里の峻坂を攀《よ》ぢて汗を拭き/\峠を越えた父の姿が髣髴《はうふつ》して、圭一郎は極度の昂奮から自殺してしまひたいほど自ら責めた。
圭一郎は何處に向かはうと八方塞がりの氣持を感じた。心に在るものはたゞ身動きの出來ない呪縛《じゆばく》のみである。
圭一郎は社を早目に出て蠣殼町《かきがらちやう》の酒問屋事務所に立寄つて相場を手帳に記し、それから大川端の白鷹正宗の問屋を訪うてそこの主人の額に瘤《こぶ》のある大入道から新聞の種を引出さうとあせつてゐるうちに電氣が來た。屋外へ出るともう四邊は眞つ暗だつた。川口を通ふ船の青い灯、赤い灯が暗い水の面に美しく亂れてゐた。
彼は更に上野山下に廣告係の家を訪ねたが不在であつた。廣小路の夜店でバナナを買ひ、徒歩で切通坂《きりどほしざか》を通つて歸つた。
食後、千登世はバナナの皮を取りながら、
「でも樂になりましたね」と、沁々した調子で言つた。
「さうね……」
圭一郎も無量の感に迫られた。
「あの時、わたし……」彼女は言ひかけて口を噤《つぐ》んだ。
あの時――と言つた丈で二人の間には、その言葉が言はず語らずのうちに互の胸に傳はつた。圭一郎は父の預金帳から四百圓程盜んで來たのであつたが、それは一二ヶ月の間になくしてしまつた。そして一日々々と生活に迫られてゐたのであつた。食事の時香のものの一片にも二人は顏見合はせて箸をつけるといふ風だつた。彼は血眼になつて職業を探したけれど駄目だつた。
「わたし、三越の裁縫部へ出ませうか、あそこなら何時でも雇つてくれるさうですから」
千登世は健氣《けなげ》に言つたが、圭一郎は情なかつた。
丁度その時、酒新聞社の編輯者募集を職業案内で見つけて、指定の日時に遣つて行つた。彼が二十幾人もの應募者の先着だつた。中にはほんのちよつとした應對で飽氣なく[#「飽氣なく」は底本では「飽氣つく」]斷られる奴もあつて、殘る半數の人たちに、主人は、銘々に文章を書かせてそれをいち/\手に取上げて讀んでは又片つ端から慘《むご》く斷り、後に圭一郎と、口髭を立派に刈込んだ金縁眼鏡の男と二人程殘つた。主人は圭一郎に、
「とに角、君は、明日九時に來て見たまへ」と、言つた。
「眞面目にやりますから、どうぞ使つて下さい。どうぞよろしくお願ひいたします」
圭一郎は丁寧にお叩頭《じぎ》して座を退り齒のすり減つた日和《ひより》をつつかけると、もう一度お叩頭をしようと振り返つたが、衝立《ついたて》に隱れて主人の顏は見えなかつた。圭一郎は、如何にも世智にたけたてきぱきした口調で、さも自信ありさうに主人に話し込んでゐる金縁眼鏡の男の横面を、はりつけてやりたい程憎らしかつた。
屋外に出るとざつと大粒の驟雨《しうう》に襲はれた。家々の軒下を
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