えました。途端わたくし敏雄を抱きあげて袂で顏を掩《おほ》ひました、不憫《ふびん》ぢやありませぬか。お兄さまもよく/\罪の深い方ぢやありませんか。それでも人間と言へますか。――わたくしのお胎内《なか》の子供も良人が遠洋航海から歸つて來るまでには産まれる筈です。わたくし敏ちやんの暗い運命を思ふ時慄然として我が子を産みたくありません。
 お兄さまの居られない今日此頃、敏雄はどんなにさびしがつてゐるでせう、「父ちやん何處?」と訊けば「トウキヨウ」と何も知らずに答へるぢやありませんか。「父ちやん、いつもどつてくる?」つて思ひ出しては嫂さまやわたくしにせがむやうに訊くぢやありませんか。敏ちやんはこの頃コマまはしをおぼえました、はじめてまはつた時の喜びつたらなかつたのです。夜も枕元に紐とコマとを揃へて寢に就きます。そして眼醒めると朝まだきから一人でまはして遊んでゐます。「父ちやん戻つたらコマをまはして見せる」つて言ふぢやありませんか。家のためにともお父さまお母さまのためにとも申しますまい。たつたひとりの敏雄のためにお兄さま、歸つては下さいませんでせうか。頼みます。
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[#地から1字上げ]春子。

 はじめの一章二章は丹念に讀めた圭一郎の眼瞼《まぶた》は火照り、終りのはうは便箋をめくつて駈け足で卒讀した。そして讀んだことが限りもなく後悔された。圭一郎は現在自分の心を痛めることをこの上なく惧《おそ》れてゐる。と言つても彼は自分の行爲をあたまから是認し、安價に肯定してゐるのではなかつた。それは時には我乍ら必然の歩みであり自然の計らひであつたとは思はなくもないが、しかし、さういふ風に自分といふものを強ひて客觀視して見たところで、寢醒めのわるく後髮を引かれるやうな自責の念は到底消滅するものではなかつた。それなら甘んじて審判の笞《しもと》を受けてもいゝ譯であるが、千登世との生活を血みどろになつて喘いでゐる最中、兎《と》や斯《か》う責任を問はれることは二重の苦しさであつて迚《とて》も遣切れなかつた。
 圭一郎は濟まない氣持で手紙をくしや/\に丸め、火鉢の中に抛《はふ》り込んだ。燒け殘りはマッチを摺つて痕形もなく燃やしてしまつた。彼の心は冷たく痲痺《しび》れ石のやうになつた。
 室内が煙で一ぱいになつたので南側の玻璃《ガラス》窓を開けた。何時しか夕暮が迫つて大川の上を烏が唖々と啼いて飛んでゐた。こんな都會の空で烏の鳴き聲を聞くことが何んだか不思議なやうな、異樣な哀しさを覺えた。
 南新川、北新川は大江戸の昔から酒の街と稱《い》つてるさうだ。その南北新川街の間を流れる新川の河岸《かし》には今しがた數艘の酒舟が着いた。滿潮にふくれた河水がぺちやぺちやと石垣を舐《な》める川縁から倉庫までの間に莚《むしろ》を敷き詰めて、その上を問屋の若い衆達が麻の前垂に捩鉢卷で菰冠《こもかぶ》りの四斗樽をころがし乍ら倉庫の中に運んでゐるのが、編輯室の窓から見下された。威勢のいゝ若い衆達の拍子揃へた端唄《はうた》に聽くとはなしに暫らく耳傾けてゐる圭一郎は軈て我に返つて振向くと、窓下の狹い路地で二三人の子供が三輪車に乘つて遊んでゐた。一人の子供が泣顏《べそ》をかいてそれを見てゐた。と忽ち、圭一郎の胸は張裂けるやうな激しい痛みを覺えた。
 其年の五月の上旬だつた。圭一郎は長い間の醜く荒《すさ》んだ惡生活から遁《のが》れるために妻子を村に殘してY町で孤獨の生活を送つてゐるうち千登世と深い戀仲になりいよ/\東京に駈け落ちしなければならなくなつた其日、彼は金策のために山の家に歸つて行つた。むしの知らせか妻はいつにもなく彼に附き纒ふのであつたが圭一郎は胸騷ぎを抑へ巧に父の預金帳を持出して家を出ようとした。ちやうど姉の子供が來合せてゐて三輪車を乘りまはして遊んでゐた。軒下に立つて指を銜《くは》へ乍らさも羨ましさうにそれを見てゐた敏雄は、圭一郎の姿を見るなり今にも泣き出しさうな暗い顏して走つて來た。
「父ちやん、僕んにも三輪車買うとくれ」
「うん」
「こん度戻る時や持つて戻つとくれよう。のう?」
「うん」
「何時もどるの、今度あ? のう父ちやん」
「…………」
 家の下で圓太郎馬車に乘る圭一郎を妻は敏雄をつれて送つて來た。馬丁が喇叭《らつぱ》をプープー鳴らし馬が四肢を揃へて駈け出した時、妻は「又歸つて頂戴ね。ご機嫌好う」と言ひ、子供は「父ちやん、三輪車を忘れちや厭よう」と言つた。同じ馬車の中に彼の家の小作爺の三平が向ひ合せに乘つてゐた。「若さま。奧さんも坊ちやんも、あんたとご一緒にY町でお暮しなさんせよ。お可哀相ぢやごわせんかい」と詰《なじ》るやうに三平は言つた。圭一郎の頭は膝にくつつくまで降つた。村境の土橋の畦《あぜ》で圭一郎が窓から顏を出すと、敏雄は門前の石段を老人のやうに小腰を曲げ、龜の子のやうに首を縮こめて、石段の數でもかぞへるかのやうに一つ/\悄々《すご/\》と上つて行くのが涙で曇つた圭一郎の眼鏡に映つた。おそらくこれがこの世の見納めだらう? さう思ふと胸元が絞木にかけられたやうに苦しくなり、大粒の涙が留め度もなく雨のやうにポロ/\落ちた。
 其日の終列車で圭一郎は千登世を連れてY町を後にしたのである。

 千登世は停留所まで圭一郎を迎へに出て仄暗《ほのぐら》い街路樹の下にしよんぼりと佇んでゐた。そして圭一郎の姿を降車口に見付けるなり彼女はつかつかと歩み寄つて「お歸り遊ばせ。お具合はどんなでしたの?」と潤《うる》んだ眼で視入り、眉を高く上げて言つた。
「氣遣つた程でもなかつた」
「さう、そんぢや好うかつたわ」勿論|國鄙語《くになまり》が挾まれた。「わたしどんなに心配したかしれなかつたの」
 外出先から歸つて來た親を出迎へる邪氣《あどけ》ない子供のやうに千登世は幾らか嬌垂《あまえ》ながら圭一郎の手を引つ張るやうにして、そして二人は電車通りから程遠くない隱れ家《が》の二階に歸つた。行火《あんくわ》で温めてあつた褥《しとね》の中に逸早く圭一郎を這入らしてから千登世は古新聞を枕元に敷き、いそ/\とその上に貧しい晩餐を運んだ。二人は箸を執つた。
「氣になつて氣になつて仕樣がなかつたの。よつぽど電話でご容態を訊かうかと思つたんですけれど」
 千登世は口籠《くちごも》つた。
 さう言はれると圭一郎は棘《とげ》にでも掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られるやうな氣持がした。彼は勤め先では獨身者らしく振る舞つてゐた。自分の行爲は何處に行かうと暗い陰影を曳いてゐたから、それで電話をかけるにしても階下の内儀《かみ》さんを裝つて欲しいと千登世に其意を仄めかした時の慘酷さ辛さが新に犇《ひし》と胸に痞《つか》へて、食物が咽喉を通らなかつた。
「今日ね、お隣りの奧さんがお縫物を持つて來て下すつたのよ」と千登世は言つて茶碗を置き片手で後の戸棚を開けて行李の上にうづだかく積んである大島や結城《ゆふき》の反物を見せた。「こんなにどつさりあつてよ。わたし今夜から徹夜の決心で縫はうと思ふの。みんな仕上げたら十四五圓頂けるでせう。お醫者さまのお禮ぐらゐおくにに頼まなくたつてわたし爲《し》て見せるわ」
「すまないね」圭一郎は病氣のせゐでひどく感傷的になつてゐた。
「そんな水臭いこと仰云《おつしや》つちや厭」千登世は怒りを含んだ聲で言つた。
 食事が終ると圭一郎は服藥して蒲團を被り、千登世は箆臺《へらだい》をひろげて裁縫にかゝつた。
「あなた、わたしの方を向いてて頂戴」
 千登世は顏をあげて絲をこき乍ら言つた。彼の顏が夜着の襟にかくれて見えないことを彼女はもの足りなく思つた。
「それから何かお話して頂戴、ね。わたしさびしいんですもの」
 圭一郎は「あゝ」と頷いて顏を出し二言三言お座なりに主人夫婦が旅に出かけたことなど話柄にしたが、直ぐあとが次《つ》げずに口を噤《つぐ》んだ。折しも、妹の長い手紙の文句がそれからそれへと思ひ返されて腸《はらわた》を抉《ゑ》ぐられるやうな物狂はしさを感じた。深い愁ひにつゝまれた故郷の家の有樣が眼に見えるやうで、圭一郎は何んとしとるぢやろ、と言つて箸を投げて悲歎に暮るる老父の姿が、そして父ちやん何時戻つて來る? とか、父ちやん戻つたらコマをまはして見せるとか言ふ眉の憂鬱な子供の面差が、又|怨《うら》めしげに遣る瀬ない悲味を愬《うつた》へた妻の顏までが、圭一郎の眼前に瀝々《まざ/\》と浮ぶのであつた。しかも同じ自分の眼は千登世を打戍《うちまも》つてゐなければならなかつた。愛の分裂――と言ふ程ではなくとも、何んだか千登世を涜《けが》すやうな例へやうのない濟まなさを覺えた。
 圭一郎はものごころついてこの方、母の愛らしい愛といふものを感じたことがない。母子の間には不可思議な呪詛《じゆそ》があつた。人一倍求愛心の強い圭一郎が何時も何時も求める心を冷たく裏切られたことは、性格の相異以上の呪ひと言ひたかつた。圭一郎は廢嫡《はいちやく》して姉に相續させたいと母は言ひ/\した。中學の半途退學も母への叛逆と悲哀とからであつた。もうその頃相當の年配に達してゐた圭一郎に小作爺の倅《せがれ》程の身支度を母はさして呉れなかつた。悶々とした彼がM郡の山中の修道院で石工をしたのもその當時であつた。だから一般家庭の青年の誰もが享樂《たの》しむことのできる青年期の誇りに充ちた自由な輝かしい幸福は圭一郎には惠まれなかつた。さうした彼が十九歳の時、それは傳統的な方法で咲子との縁談が持出された。咲子は母方の遠縁に當つてゐる未知の女であつたに拘らず、二歳年上であることが母性愛を知らない圭一郎には全く天の賜物《たまもの》とまで考へられた。そして眼隱された奔馬のやうな無智さで、前後も考へず有無なく結婚してしまつた。
 結婚生活の當初咲子は豫期通り圭一郎を嬰兒《えいじ》のやうに愛し劬《いたは》つてくれた。それなら彼は滿ち足りた幸福に陶醉しただらうか。すくなくとも形の上だけは琴《きん》と瑟《ひつ》と相和したが、けれども十九ではじめて知つた悦びに、この張り切つた音に、彼女の弦は妙にずつた音を出してぴつたり來ない。蕾を開いた許りの匂の高い薔薇の亢奮が感じられないのは年齡の差異とばかりも考へられない。一體どうしたことだらう? 彼は疑ぐり出した。疑ぐりの心が頭を擡《もた》げるともう自制出來る圭一郎ではなかつた。
「咲子、お前は處女だつたらうな?」
「何を出拔《だしぬ》けにそんなことを……失敬な」
 火のやうな激しい怒りを圭一郎は勿論|冀《こひねが》うたのだが、咲子は怒つたやうでもあるし、怒り方の足りない不安もあつた。彼の疑念は深まるばかりであつた。そして蛇のやうな執拗さで間がな隙がな追究しずにはゐられなかつた。
「ほんたうに處女だつた?」
「女が違ひますよ」
「縱令《よし》、それなら僕のこの眼を見ろ。胡魔化したつて駄目だぞ!」
 圭一郎はきつと齒を喰ひしばり羅漢のやうな怒恚《いか》れる眼を見張つた。
「幾らでも見ててあげるわ」と言つて妻は眸子《ひとみ》を彼の眼に凝つと据ゑたが、直ぐへんに苦笑し、目叩《またゝき》し、
「そんなに疑ぐり深い人わたし嫌ひ……」
「駄目、駄目だ!」
 何んと言つても妻の暗い翳《かげ》を圭一郎は直感した。其後幾百回幾千回斯うした詰問を、敏雄が産まれてからも依然として繰返すことを止めはしなかつた。圭一郎はY町の妻の實家の近所の床屋にでも行つて髮を刈り乍ら他哩《たわい》のない他人の噂話の如く裝つてそれとなく事實を突き留めようかと何遍決心したかしれなかつた。が、卒《いざ》となると果し兼ねた。子供の時父の用箪笥《ようだんす》から六連發のピストルを持出し、妹を目蒐《めが》けて撃つぞと言つて筒口を向け引金に指をかけた時、はつと思つて彈倉を覗くと六個の彈丸が底氣味惡く光つてをるではないか! 彼はあつと叫んで危なく失神しようとした。丁度それに似た氣持だつた。若し引金を引いてゐたらどうであつたらう。この場合若し圭一郎が髮床屋にでも行つて「それだ」と怖い事實を知つた曉を想像すると身の毛は彌立《よ
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