してあげます。お兄さまとお嫂さまとの過ぎる幾年間の生活に思ひ及ぶ時、今度のことがお兄さまの一時の氣紛れな出來ごころとは思はれません。或ひは當然すぎる程當然であつたかもしれません。何時かの親族會議では咲子嫂さまを離縁したらいゝとの提議が多かつたのです。それを嫂さまは逸早《いちはや》く嗅知つて、一文も金は要らぬから敏雄だけは貰つて行くと言つて敏雄を連れていきなり實家に歸つてしまつたのです。しかも敏雄はお父さまにとつては眼に入れても痛くないたつた一粒の孫ですもの。敏雄なしにはお父さまは夜の眼も睡れないのです。お父さまはお母さまと一つしよに、Y町のお實家《さと》に詫びに行らして嫂さまと敏雄とを連れ戻したのです。迚も敏雄とお嫂さまを離すことは出來ません。離すことは慘酷です。いぢらしいのは敏ちやんぢやありませんか。
敏ちやんは性來の臆病から、それに隣りがあまり隔つてゐるので一人で遊びによう出ません。同じ年配の子供達が向うの田圃や磧《かはら》で遊んでゐるのを見ると、堪へきれなくなつて涙を流します。時偶《ときたま》仲間が遣つて來ると小踊して歡び、仲間に歸られてはと、ご飯も食べないのです。歸ると言はれると、ではお菓子を呉れてあげるから、どれ繪本を呉れてあげるからと手を替へ品を替へて機嫌をとります。いよいよかなはなくなると、わたくしや嫂さまに引留方を哀願に來ます。それにしても夕方になれば致し方がない。高い屋敷の庭先から黄昏《たそがれ》に消えて行く友達のうしろ姿を見送ると、しくり/\泣いて家の中に駈け込みます。そしてお父さまの膝に乘つかると、そのまま夕飯も食べない先に眠つてしまひます。臺所の圍爐裡《ゐろり》に榾柮《ほだ》を燻《く》べて家ぢゆうの者は夜を更かします。お父さまは敏ちやんの寢顏を打戍《うちまも》り乍ら仰有《おつしや》います「圭一郎に瓜二つぢや喃《なう》」とか「燒野の雉子《きゞす》、夜の鶴――圭一郎は子供の可愛いといふことを知らんのぢやらうか」とか。
先月の二十一日は御大師樣の命日でした。村の老若は丘を越え橋を渡り三々五々にうち伴れてお菓子やお赤飯のお接待を貰つて歩きます。わたくしも敏雄をつれてお接待を頂戴して歩きました。明神下の畦徑《あぜみち》を提籃さげた敏雄の手を扶《ひ》いて歩いてゐると、お隣の金さん夫婦がよち/\歩む子供を中にして川邊《かはべ》りの往還を通つてゐるのが見えました。途端わたくし敏雄を抱きあげて袂で顏を掩《おほ》ひました、不憫《ふびん》ぢやありませぬか。お兄さまもよく/\罪の深い方ぢやありませんか。それでも人間と言へますか。――わたくしのお胎内《なか》の子供も良人が遠洋航海から歸つて來るまでには産まれる筈です。わたくし敏ちやんの暗い運命を思ふ時慄然として我が子を産みたくありません。
お兄さまの居られない今日此頃、敏雄はどんなにさびしがつてゐるでせう、「父ちやん何處?」と訊けば「トウキヨウ」と何も知らずに答へるぢやありませんか。「父ちやん、いつもどつてくる?」つて思ひ出しては嫂さまやわたくしにせがむやうに訊くぢやありませんか。敏ちやんはこの頃コマまはしをおぼえました、はじめてまはつた時の喜びつたらなかつたのです。夜も枕元に紐とコマとを揃へて寢に就きます。そして眼醒めると朝まだきから一人でまはして遊んでゐます。「父ちやん戻つたらコマをまはして見せる」つて言ふぢやありませんか。家のためにともお父さまお母さまのためにとも申しますまい。たつたひとりの敏雄のためにお兄さま、歸つては下さいませんでせうか。頼みます。
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[#地から1字上げ]春子。
はじめの一章二章は丹念に讀めた圭一郎の眼瞼《まぶた》は火照り、終りのはうは便箋をめくつて駈け足で卒讀した。そして讀んだことが限りもなく後悔された。圭一郎は現在自分の心を痛めることをこの上なく惧《おそ》れてゐる。と言つても彼は自分の行爲をあたまから是認し、安價に肯定してゐるのではなかつた。それは時には我乍ら必然の歩みであり自然の計らひであつたとは思はなくもないが、しかし、さういふ風に自分といふものを強ひて客觀視して見たところで、寢醒めのわるく後髮を引かれるやうな自責の念は到底消滅するものではなかつた。それなら甘んじて審判の笞《しもと》を受けてもいゝ譯であるが、千登世との生活を血みどろになつて喘いでゐる最中、兎《と》や斯《か》う責任を問はれることは二重の苦しさであつて迚《とて》も遣切れなかつた。
圭一郎は濟まない氣持で手紙をくしや/\に丸め、火鉢の中に抛《はふ》り込んだ。燒け殘りはマッチを摺つて痕形もなく燃やしてしまつた。彼の心は冷たく痲痺《しび》れ石のやうになつた。
室内が煙で一ぱいになつたので南側の玻璃《ガラス》窓を開けた。何時しか夕暮が迫つて大川の上を烏が
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