唖々と啼いて飛んでゐた。こんな都會の空で烏の鳴き聲を聞くことが何んだか不思議なやうな、異樣な哀しさを覺えた。
 南新川、北新川は大江戸の昔から酒の街と稱《い》つてるさうだ。その南北新川街の間を流れる新川の河岸《かし》には今しがた數艘の酒舟が着いた。滿潮にふくれた河水がぺちやぺちやと石垣を舐《な》める川縁から倉庫までの間に莚《むしろ》を敷き詰めて、その上を問屋の若い衆達が麻の前垂に捩鉢卷で菰冠《こもかぶ》りの四斗樽をころがし乍ら倉庫の中に運んでゐるのが、編輯室の窓から見下された。威勢のいゝ若い衆達の拍子揃へた端唄《はうた》に聽くとはなしに暫らく耳傾けてゐる圭一郎は軈て我に返つて振向くと、窓下の狹い路地で二三人の子供が三輪車に乘つて遊んでゐた。一人の子供が泣顏《べそ》をかいてそれを見てゐた。と忽ち、圭一郎の胸は張裂けるやうな激しい痛みを覺えた。
 其年の五月の上旬だつた。圭一郎は長い間の醜く荒《すさ》んだ惡生活から遁《のが》れるために妻子を村に殘してY町で孤獨の生活を送つてゐるうち千登世と深い戀仲になりいよ/\東京に駈け落ちしなければならなくなつた其日、彼は金策のために山の家に歸つて行つた。むしの知らせか妻はいつにもなく彼に附き纒ふのであつたが圭一郎は胸騷ぎを抑へ巧に父の預金帳を持出して家を出ようとした。ちやうど姉の子供が來合せてゐて三輪車を乘りまはして遊んでゐた。軒下に立つて指を銜《くは》へ乍らさも羨ましさうにそれを見てゐた敏雄は、圭一郎の姿を見るなり今にも泣き出しさうな暗い顏して走つて來た。
「父ちやん、僕んにも三輪車買うとくれ」
「うん」
「こん度戻る時や持つて戻つとくれよう。のう?」
「うん」
「何時もどるの、今度あ? のう父ちやん」
「…………」
 家の下で圓太郎馬車に乘る圭一郎を妻は敏雄をつれて送つて來た。馬丁が喇叭《らつぱ》をプープー鳴らし馬が四肢を揃へて駈け出した時、妻は「又歸つて頂戴ね。ご機嫌好う」と言ひ、子供は「父ちやん、三輪車を忘れちや厭よう」と言つた。同じ馬車の中に彼の家の小作爺の三平が向ひ合せに乘つてゐた。「若さま。奧さんも坊ちやんも、あんたとご一緒にY町でお暮しなさんせよ。お可哀相ぢやごわせんかい」と詰《なじ》るやうに三平は言つた。圭一郎の頭は膝にくつつくまで降つた。村境の土橋の畦《あぜ》で圭一郎が窓から顏を出すと、敏雄は門前の石段を老人のやうに小腰を曲げ、龜の子のやうに首を縮こめて、石段の數でもかぞへるかのやうに一つ/\悄々《すご/\》と上つて行くのが涙で曇つた圭一郎の眼鏡に映つた。おそらくこれがこの世の見納めだらう? さう思ふと胸元が絞木にかけられたやうに苦しくなり、大粒の涙が留め度もなく雨のやうにポロ/\落ちた。
 其日の終列車で圭一郎は千登世を連れてY町を後にしたのである。

 千登世は停留所まで圭一郎を迎へに出て仄暗《ほのぐら》い街路樹の下にしよんぼりと佇んでゐた。そして圭一郎の姿を降車口に見付けるなり彼女はつかつかと歩み寄つて「お歸り遊ばせ。お具合はどんなでしたの?」と潤《うる》んだ眼で視入り、眉を高く上げて言つた。
「氣遣つた程でもなかつた」
「さう、そんぢや好うかつたわ」勿論|國鄙語《くになまり》が挾まれた。「わたしどんなに心配したかしれなかつたの」
 外出先から歸つて來た親を出迎へる邪氣《あどけ》ない子供のやうに千登世は幾らか嬌垂《あまえ》ながら圭一郎の手を引つ張るやうにして、そして二人は電車通りから程遠くない隱れ家《が》の二階に歸つた。行火《あんくわ》で温めてあつた褥《しとね》の中に逸早く圭一郎を這入らしてから千登世は古新聞を枕元に敷き、いそ/\とその上に貧しい晩餐を運んだ。二人は箸を執つた。
「氣になつて氣になつて仕樣がなかつたの。よつぽど電話でご容態を訊かうかと思つたんですけれど」
 千登世は口籠《くちごも》つた。
 さう言はれると圭一郎は棘《とげ》にでも掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られるやうな氣持がした。彼は勤め先では獨身者らしく振る舞つてゐた。自分の行爲は何處に行かうと暗い陰影を曳いてゐたから、それで電話をかけるにしても階下の内儀《かみ》さんを裝つて欲しいと千登世に其意を仄めかした時の慘酷さ辛さが新に犇《ひし》と胸に痞《つか》へて、食物が咽喉を通らなかつた。
「今日ね、お隣りの奧さんがお縫物を持つて來て下すつたのよ」と千登世は言つて茶碗を置き片手で後の戸棚を開けて行李の上にうづだかく積んである大島や結城《ゆふき》の反物を見せた。「こんなにどつさりあつてよ。わたし今夜から徹夜の決心で縫はうと思ふの。みんな仕上げたら十四五圓頂けるでせう。お醫者さまのお禮ぐらゐおくにに頼まなくたつてわたし爲《し》て見せるわ」
「すまないね」圭一郎は病氣のせゐでひどく感
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