傷的になつてゐた。
「そんな水臭いこと仰云《おつしや》つちや厭」千登世は怒りを含んだ聲で言つた。
食事が終ると圭一郎は服藥して蒲團を被り、千登世は箆臺《へらだい》をひろげて裁縫にかゝつた。
「あなた、わたしの方を向いてて頂戴」
千登世は顏をあげて絲をこき乍ら言つた。彼の顏が夜着の襟にかくれて見えないことを彼女はもの足りなく思つた。
「それから何かお話して頂戴、ね。わたしさびしいんですもの」
圭一郎は「あゝ」と頷いて顏を出し二言三言お座なりに主人夫婦が旅に出かけたことなど話柄にしたが、直ぐあとが次《つ》げずに口を噤《つぐ》んだ。折しも、妹の長い手紙の文句がそれからそれへと思ひ返されて腸《はらわた》を抉《ゑ》ぐられるやうな物狂はしさを感じた。深い愁ひにつゝまれた故郷の家の有樣が眼に見えるやうで、圭一郎は何んとしとるぢやろ、と言つて箸を投げて悲歎に暮るる老父の姿が、そして父ちやん何時戻つて來る? とか、父ちやん戻つたらコマをまはして見せるとか言ふ眉の憂鬱な子供の面差が、又|怨《うら》めしげに遣る瀬ない悲味を愬《うつた》へた妻の顏までが、圭一郎の眼前に瀝々《まざ/\》と浮ぶのであつた。しかも同じ自分の眼は千登世を打戍《うちまも》つてゐなければならなかつた。愛の分裂――と言ふ程ではなくとも、何んだか千登世を涜《けが》すやうな例へやうのない濟まなさを覺えた。
圭一郎はものごころついてこの方、母の愛らしい愛といふものを感じたことがない。母子の間には不可思議な呪詛《じゆそ》があつた。人一倍求愛心の強い圭一郎が何時も何時も求める心を冷たく裏切られたことは、性格の相異以上の呪ひと言ひたかつた。圭一郎は廢嫡《はいちやく》して姉に相續させたいと母は言ひ/\した。中學の半途退學も母への叛逆と悲哀とからであつた。もうその頃相當の年配に達してゐた圭一郎に小作爺の倅《せがれ》程の身支度を母はさして呉れなかつた。悶々とした彼がM郡の山中の修道院で石工をしたのもその當時であつた。だから一般家庭の青年の誰もが享樂《たの》しむことのできる青年期の誇りに充ちた自由な輝かしい幸福は圭一郎には惠まれなかつた。さうした彼が十九歳の時、それは傳統的な方法で咲子との縁談が持出された。咲子は母方の遠縁に當つてゐる未知の女であつたに拘らず、二歳年上であることが母性愛を知らない圭一郎には全く天の賜物《たまもの》とまで考へられた。そして眼隱された奔馬のやうな無智さで、前後も考へず有無なく結婚してしまつた。
結婚生活の當初咲子は豫期通り圭一郎を嬰兒《えいじ》のやうに愛し劬《いたは》つてくれた。それなら彼は滿ち足りた幸福に陶醉しただらうか。すくなくとも形の上だけは琴《きん》と瑟《ひつ》と相和したが、けれども十九ではじめて知つた悦びに、この張り切つた音に、彼女の弦は妙にずつた音を出してぴつたり來ない。蕾を開いた許りの匂の高い薔薇の亢奮が感じられないのは年齡の差異とばかりも考へられない。一體どうしたことだらう? 彼は疑ぐり出した。疑ぐりの心が頭を擡《もた》げるともう自制出來る圭一郎ではなかつた。
「咲子、お前は處女だつたらうな?」
「何を出拔《だしぬ》けにそんなことを……失敬な」
火のやうな激しい怒りを圭一郎は勿論|冀《こひねが》うたのだが、咲子は怒つたやうでもあるし、怒り方の足りない不安もあつた。彼の疑念は深まるばかりであつた。そして蛇のやうな執拗さで間がな隙がな追究しずにはゐられなかつた。
「ほんたうに處女だつた?」
「女が違ひますよ」
「縱令《よし》、それなら僕のこの眼を見ろ。胡魔化したつて駄目だぞ!」
圭一郎はきつと齒を喰ひしばり羅漢のやうな怒恚《いか》れる眼を見張つた。
「幾らでも見ててあげるわ」と言つて妻は眸子《ひとみ》を彼の眼に凝つと据ゑたが、直ぐへんに苦笑し、目叩《またゝき》し、
「そんなに疑ぐり深い人わたし嫌ひ……」
「駄目、駄目だ!」
何んと言つても妻の暗い翳《かげ》を圭一郎は直感した。其後幾百回幾千回斯うした詰問を、敏雄が産まれてからも依然として繰返すことを止めはしなかつた。圭一郎はY町の妻の實家の近所の床屋にでも行つて髮を刈り乍ら他哩《たわい》のない他人の噂話の如く裝つてそれとなく事實を突き留めようかと何遍決心したかしれなかつた。が、卒《いざ》となると果し兼ねた。子供の時父の用箪笥《ようだんす》から六連發のピストルを持出し、妹を目蒐《めが》けて撃つぞと言つて筒口を向け引金に指をかけた時、はつと思つて彈倉を覗くと六個の彈丸が底氣味惡く光つてをるではないか! 彼はあつと叫んで危なく失神しようとした。丁度それに似た氣持だつた。若し引金を引いてゐたらどうであつたらう。この場合若し圭一郎が髮床屋にでも行つて「それだ」と怖い事實を知つた曉を想像すると身の毛は彌立《よ
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