まされない。彼は入口のところまで行つて少時《しばらく》階下の樣子を窺ひ、それから障子を閉めて手紙をひらいた。
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なつかしい東京のお兄さま。朝夕はめつきり寒さが加はりましたが恙《つゝが》もなくご起居あそばしますか。いつぞやは頂いたお手紙で、お兄さまを苦しめるやうな便りを差し上げては不可《いけない》とあんなにまで仰云《おつしや》いましたけれ共、お兄さまのお心を痛めるとは十分存じながらも奈何《どう》しても書かずにはすまされません。それかと申して何から書きませうか。書くことがあまりに多い。……
お父さまは一週間前から感冒に罹《かゝ》られてお寢《よ》つてゐられます。それに持病の喘息《ぜんそく》も加つて昨今の衰弱は眼に立つて見えます。こゝのとこ毎日安藤先生がお來診《みえ》になつてカルシウムの注射をして下さいます。何んといつてもお年がお年ですからそれだけに不安でなりません。お父さまの苦しさうな咳聲を聞くたびにわたくし生命の縮まる思ひがされます。「俺が生きとるうちに何んとか圭一郎の始末をつけて置いてやらにやならん」と昨日も病床で仰云いました。腹這ひになつてお粥《かゆ》を召上り乍ら不圖《ふと》思ひ出したやうに「圭一郎はなんとしとるぢやろ」と言はれると、ひとり手にお父さまの指から箸が辷り落ちます。夜は十二時、一時になつても奧のお座敷からお父さまお母さまの密々話《ひそ/\ばなし》の聲が洩れ聞えます。お兄さまも時にはお父さまに優しい慰めのお玉章《てがみ》差上て下さい。切なわたくしのお願ひです。お父さまがどんなにお兄さまのお便りを待つていらつしやるかといふことは、お兄さまには想像もつきますまい。川下からのぼつて來る配達夫をお父さまはあの高い丘の果樹園からどこに行くかを凝《ぢ》つと視おろしてゐられます。配達夫が自家《うち》に來てわたくし手招きでお兄さまのお便りだと知らすと、お父さまは狂氣のやうになつて、ほんとにこけつまろびつ歸つて來られます。迚《とて》も/\お兄さまなぞに親心が解つてたまるものですか。
凡そお兄さまが自家を逃亡《でら》れてからといふものは、家の中は全く灯の消えた暗さです。裏の欅山《けやきやま》もすつかり黄葉して秋もいよ/\更けましたが、ものの哀れは一入《ひとしほ》吾が家にのみあつまつてゐるやうに感じられます。早稻《わせ》はとつくに刈られて今頃は晩稻《おくて》の收穫時で田圃《たんぼ》は賑つてゐます。古くからの小作達はさうでもありませんけども、時二とか與作などは未だ臼挽《うすひき》も濟まさないうちから強硬に加調米を値切つてゐます。要求に應じないなら斷じて小作はしないといふ劍幕です。それといふのも女や年寄ばかりだと思つて見縊《みくび》つてゐるのです。「田を見ても山を見ても俺はなさけのうて涙がこぼれるぞよ」とお父さまは言ひ言ひなさいます。先日もお父さまは、鳶《とび》が舞はにや影もない――と唄には歌はれる片田の上田を買はれた時の先代の一方ならぬ艱難辛苦の話をなすつて「先代さまのお墓に申譯ないぞよ」と言つて、其時は文字通り暗涙に咽《むせ》ばれました。お父さまはご養子であるだけに祖先に對する責任感が強いのです。田地山林を讓る可き筈のお兄さまの居られないお父さまの歎きのお言葉を聞く度に、わたくしお兄さまを恨まずにはゐられません。
先日もお父さまが、あの鍛冶屋《かぢや》の向うの杉山に行つて見られますと、意地のきたない田澤の主人が境界石を自家の所有の方に二間もずらしてゐたさうです。お父さまは齒軋《はぎし》りして口惜しがられました。「圭一郎が居らんからこないなことになるんぢや。不孝者の餓鬼奴。今に罰が當つて眼がつぶれようぞ」とお父さまはさも/\憎しげにお兄さまを罵《のゝし》られました。しかし昂奮が去ると「あゝ、なんにもかも因縁因果といふもんぢやろ。お母《つか》ア諦めよう。……仕方がない。敏雄の成長を待たう。それまでに俺が死んだら何んとせうもんぞい」斯うも仰云《おつしや》いました。
咲子|嫂《ねえ》さまを離縁してお兄さまと千登世さまとに歸つていたゞけば萬事解決します。しかし、それでは大江の家として親族への義理、世間への手前がゆるしません。咲子嫂さまは相變らず一萬圓くれとか、でなかつたら裁判沙汰にするとか息卷いて、質《たち》の惡い仲人《なかうど》とぐるになつてお父さまをくるしめてゐます。何んといつてもお兄さまが不可《いけな》いのです。どうして厭なら厭嫌ひなら嫌ひで嫂さまと正式に別れた上で千登世さまと一緒にならなかつたのです。あんな無茶なことをなさるから問題がいよ/\複雜になつて、相互の感情がこぢれて來たのです。今では縺《もつれ》を解かうにも緒《いとぐち》さへ見つからない始末ぢやありませんか。
けれどもわたくしお兄さまのお心も理解
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