屋事務所に立寄つて相場を手帳に記し、それから大川端の白鷹正宗の問屋を訪うてそこの主人の額に瘤《こぶ》のある大入道から新聞の種を引出さうとあせつてゐるうちに電氣が來た。屋外へ出るともう四邊は眞つ暗だつた。川口を通ふ船の青い灯、赤い灯が暗い水の面に美しく亂れてゐた。
 彼は更に上野山下に廣告係の家を訪ねたが不在であつた。廣小路の夜店でバナナを買ひ、徒歩で切通坂《きりどほしざか》を通つて歸つた。
 食後、千登世はバナナの皮を取りながら、
「でも樂になりましたね」と、沁々した調子で言つた。
「さうね……」
 圭一郎も無量の感に迫られた。
「あの時、わたし……」彼女は言ひかけて口を噤《つぐ》んだ。
 あの時――と言つた丈で二人の間には、その言葉が言はず語らずのうちに互の胸に傳はつた。圭一郎は父の預金帳から四百圓程盜んで來たのであつたが、それは一二ヶ月の間になくしてしまつた。そして一日々々と生活に迫られてゐたのであつた。食事の時香のものの一片にも二人は顏見合はせて箸をつけるといふ風だつた。彼は血眼になつて職業を探したけれど駄目だつた。
「わたし、三越の裁縫部へ出ませうか、あそこなら何時でも雇つてくれるさうですから」
 千登世は健氣《けなげ》に言つたが、圭一郎は情なかつた。
 丁度その時、酒新聞社の編輯者募集を職業案内で見つけて、指定の日時に遣つて行つた。彼が二十幾人もの應募者の先着だつた。中にはほんのちよつとした應對で飽氣なく[#「飽氣なく」は底本では「飽氣つく」]斷られる奴もあつて、殘る半數の人たちに、主人は、銘々に文章を書かせてそれをいち/\手に取上げて讀んでは又片つ端から慘《むご》く斷り、後に圭一郎と、口髭を立派に刈込んだ金縁眼鏡の男と二人程殘つた。主人は圭一郎に、
「とに角、君は、明日九時に來て見たまへ」と、言つた。
「眞面目にやりますから、どうぞ使つて下さい。どうぞよろしくお願ひいたします」
 圭一郎は丁寧にお叩頭《じぎ》して座を退り齒のすり減つた日和《ひより》をつつかけると、もう一度お叩頭をしようと振り返つたが、衝立《ついたて》に隱れて主人の顏は見えなかつた。圭一郎は、如何にも世智にたけたてきぱきした口調で、さも自信ありさうに主人に話し込んでゐる金縁眼鏡の男の横面を、はりつけてやりたい程憎らしかつた。
 屋外に出るとざつと大粒の驟雨《しうう》に襲はれた。家々の軒下を潜るやうにして走つたり、又暫らく銀行の石段で雨宿りしたりしてゐたが、思ひ切つて鈴成りに混《こん》だ電車に乘つた時は圭一郎は濡れ鼠のやうになつてゐた。停留所には千登世が迎へに出て土砂降の中を片手で傘を翳《かざ》し片手で裾を高く掻きあげて待つてゐた。そして、降車口に圭一郎のずぶ濡れ姿を見つけるなり、千登世は急ぎ歩み寄つて、
「まあ、お濡れになつたのね」と眉根に深い皺を刻んで傷々《いた/\》しげに言つた。
 圭一郎は千登世の傘の中に飛び込むと、二人は相合傘で大學の正門前の水菓子屋の横町から暗い路地に這入つて行つた。歩きながら圭一郎は酒新聞社での樣子をこま/″\千登世に話して聽かせた。
「とに角、明日も一度來て見ろと言つたんですよ」
「ぢや、屹度《きつと》、雇ふ考へですよ」
と彼女は言つたが、これまで屡繰り返されたと同じやうな空頼みになるのではあるまいかといふ豫感の方が先に立つて千登世はそれ以上ものを言ふのが辛かつた。
「雇つてくれるかもしれん……」
 圭一郎は口の中で呟いた。けれ共、頼み難いことを頼みにし獨り決めして置いて、後で又しても千登世を失望させてはと考へた。さう思へば思ふ程、金縁眼鏡の男がうらめしかつた。
「ほんたうに雇つてくれるといゝが……」
 圭一郎は思はず深い溜息を洩らした。
「悄氣《しよげ》ちや駄目ですよ、しつかりなさいな」
 斯う千登世は氣の張りを見せて圭一郎に元氣を鼓舞《つけ》ようとした。が、濡れしをれた衣服の裾がべつたり脚に纒つて歩きにくさうであり、長く伸びた頭髮からポトリ/\と雫の滴《したゝ》る圭一郎のみじめな姿を見た千登世の眼には、夜目にも熱い涙の玉が煌《きら》めいた。
 運好く採用されたのだつたが、千登世はその夜のことを何時までも忘れなかつた。「わたし泣いてはいけないと思つたんですけれど、あの時――だけは悲しくて……」彼女は思ひ出しては時々それを口にした。
 千登世は食後の後片づけをすますと、寛《くつろ》いだ話もそこ/\に切り上げ暗い電燈を眼近く引き下して針仕事を始めた。圭一郎は檢温器を腋下に挾んでみたが、まだ平熱に歸らないので直ぐ寢床に這入つた。
 壁一重の隣家の中學生が頓狂な發音で英語の復習をはじめた。
 What a funy bear !
「あゝ煩さい。もつと小さな聲でやれよ」兄の大學生らしいのが斯う窘《たしな》める。
 中學生は一向平
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