一郎はこれまで幾回も同じ意味のことを、千登世に不憫《ふびん》をかけて欲しいといふことを父にも妹にも書き送つたが、どうにも抽象的にしか書けない程自分自身が疚《やま》しかつた。
生活の革命――さういふ文字が齎《もたら》す高尚な内容が圭一郎の今度の行爲の中に全然皆無だといふのではなく、寧ろさうしたものが多量に含まれてあると思ひたかつた。が、靜かに顧みて自問自答する時彼は我乍ら唾棄の思ひがされ冷汗のおのづと流れるのを覺えた。
妻の過去を知つてからこの方、圭一郎の頭にこびりついて須臾《しゆゆ》も離れないものは「處女」を知らないといふことであつた。村に居ても東京に居ても束の間もそれが忘れられなかつた。往來で、電車の中で異性を見るたびに先づ心に映るものは容貌の如何ではなくて、處女だらうか? 處女であるまいか? といふことであつた。あはよくば、それは奇蹟的にでも闇に咲く女の中にさうした者を探し當てようとあちこちの魔窟を毎夜のやうにほつつき歩いたこともあつた、縱令《よし》、乞丐《こじき》の子であつても介意《かま》ふまい。假令《たとへ》獄衣を身に纒ふやうな恥づかしめを受けようと、レエイプしてもとまで屡思ひ詰めるのだつた。
根津の下宿に居たある年の夏の夜、圭一郎は茶の間に招かれて宿のをばさんと娘の芳ちやんと二人で四方山《よもやま》の話をした。キヤツキヤツ燥《はしや》いでゐた芳ちやんは間もなく長火鉢の傍に寢床をのべて寢てしまつた。暑中休暇のことで階上も階下もがら空きで四邊はしんと鎭まつてゐた。忽ち足をばた/\させて蒲團を蹴とばした芳ちやんは眞つ白な兩方の股を弓のやうに踏張つた。と、つ…………………みたいなものが瞥《ちら》と圭一郎の眼に這入つた。
「あら、芳ちやん厭だわ」
をばさんは急いで蒲團をかけた。圭一郎は赧《あか》らむ顏を俯向《うつむ》いて異樣に沸騰《たぎ》る心を抑へようとした。をばさんさへ居なかつたらと彼は齒をがた/\顫《ふる》はした。彼の頭に蜘蛛が餌食を卷き締めて置いて咽喉を食ひ破るやうな殘忍的な考が閃めいたのだ。
斯うした獸的な淺間しい願望の延長――が千登世の身體にはじめて實現されたのであつた。彼は多年の願ひがかなへられた時、最早前後を顧慮する遑《いとま》とてもなく千登世を拉《らつ》し去つたのであるが、それは合意の上だと言へば言へこそすれ、ゴリラが女を引浚《ひつさら》へるやうな慘虐な、ずゐぶん兇暴なものであつた。もちろん圭一郎は千登世に對して無上の恩と大きな責任とを感じてゐた。飛んで灯に入る愚な夏の蟲にも似て、彼は父の財産も必要としないで石に齧《かじ》りついても千登世を養ふ決心だつた。が、自分ひとりは覺悟の前である生活の苦鬪の中に羸弱《ひよわ》い彼女までその渦の中に卷きこんで苦勞させることは堪へ難いことであつた。
圭一郎は、父にも、妹にも、誰に對しても告白のできぬ多くの懺悔を、痛みを忍んで我と我が心の底に迫つて行つた。
結局、故郷への手紙は思はせ振りな空疎な文字の羅列に過ぎなかつた。けれども一國《いつこく》な我儘者の圭一郎に傅《かしづ》いて嘸々《さぞ/\》氣苦勞の多いことであらうとの慰めの言葉を一言千登世宛に書き送つて貰ひたいといふことだけはいつものやうに冗《くど》く、二伸としてまで書き加へた。
圭一郎が父に要求する千登世への劬《いたは》りの手紙は彼が請ひ求めるまでもなくこれまで一度ならず二度も三度も父は寄越したのであつた。父は最初から二人を別れさせようとする意志は微塵も見せなかつた。別れさしたところで今さらをめ/\村に歸つて自家の閾《しきゐ》が跨がれる圭一郎でもあるまいし、同時に又千登世に對して犯した我子の罪を父は十分感じてゐることも否《いな》めなかつた。鼎《かなへ》の湯のやうに沸き立つ喧《やかま》しい近郷近在の評判や取々の沙汰に父は面目ながつて暫らくは一室に幽閉してゐたらしいが其間も屡便りを送つて來た。さま/″\の愚痴もならべられてあるにしても、何うか二人が仲よく暮らして呉れとかお互に身體さへ大切にして長生してゐれば何時か再會が叶ふだらうとか、其時はつもる話をしようとか書いてあつた。そして定《きま》つたやうに「何もインネンインガとあきらめ居候」として終りが結んであつた。時には思ひがけなく隣村の郵便局の消印で爲替が封入してあることも度々だつた。村の郵便局からでは顏|馴染《なじみ》の局員の手前を恥ぢて、杖に縋《すが》りながら二里の峻坂を攀《よ》ぢて汗を拭き/\峠を越えた父の姿が髣髴《はうふつ》して、圭一郎は極度の昂奮から自殺してしまひたいほど自ら責めた。
圭一郎は何處に向かはうと八方塞がりの氣持を感じた。心に在るものはたゞ身動きの出來ない呪縛《じゆばく》のみである。
圭一郎は社を早目に出て蠣殼町《かきがらちやう》の酒問
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