氣なものだ。
 Is he strong ?
「煩さいつたら!」兄は悍《たけ》り立つた金切聲で叱り附けた。
 圭一郎と千登世とは思はず顏を合せて、クス/\笑ひ出した。が、直ぐ笑へなくなつた。その兄弟たちの希望に富む輝かしい將來に較べて、自分達の未來といふものの何んとさびしい目當てのないものではないかといふ氣がして。
 軈《やが》て、夜番の拍子木の音がカチ/\聞えて來る時分には、中學生の寢言が手に取るやうに聞える。夢にまで英語の復習をやつてるらしい。階下でも内儀《かみ》さんが店を閉めた。四邊は深々と更けて行く。筋向うの大學の御用商人とかいふ男が醉拂つて細君を呶鳴る聲、器物を投げつける烈しい物音がひとしきり高かつた。暫らくすると支那|蕎麥屋《そばや》の笛が聞えて來た。
「あら、また遣つて來た!」
 千登世は感に迫られて針持つ手を置いた。
 千登世は、今後、この都を去つて何處かの山奧に二人が侘住ひするやうになつても、支那蕎麥屋の笛の音だけは忘れ得ないだらうと言つた。――駈落ち當時、高徳の譽高い淨土教のG師が極力二人を別れさせようとした。そのG師の禪房に曾《か》つて圭一郎は二年も寄宿し、G師に常隨してその教化を蒙つてゐた關係上、上京すると何より眞つ先きにG師に身を寄せて一切をぶちまけなければ措《お》けない心の立場にあつたのだ。G師の人間的な同情は十分持ち乍らも、しかし、G師自身の信仰の上から圭一郎の行爲を是認して見遁すことはゆるされなかつた。G師は毎夜のやうに圭一郎を呼び寄せて「無明煩惱シゲクシテ、妄想顛倒ノナセルナリ」……今は水の出端《でばな》で思慮分別に事缺くけれど、直に迷ひの目がさめるぞ、斯うした不自然な同棲生活の終《つひ》に成り立たざること、心の負擔に堪へざること、幻滅の日、破滅の日は決してさう遠くはないぞ、一旦の妄念を棄て別れなければならぬ。――斯う諄々《じゆん/\》と説法した。圭一郎は生木を裂かれるやうな反感を覺えながらも、しかし、故郷の肉親に對する斷ち難き愛染は感じてゐるのだから、そして心の呵責《かしやく》は渦を卷いてゐるのだから、そこの虚を衝《つ》かれた日には良心的に實際|適《かな》はない感じのものだつた。圭一郎がG師から兎や斯うきつい説法を喰つてゐる間、千登世は二階で一人わびしく圭一郎の歸りを待ちながら、人通りの杜絶《とだ》えた路地に彼の下駄の音を今か/\と耳を澄ましてゐる時、この支那蕎麥屋の笛を聞いて、われを忘れて慟哭《どうこく》したといふのである。千登世にしてみれば、別れろ/\と攻め立てられてG師の前に弱つて首垂《うなだ》れてゐる圭一郎がいぢらしくもあり、恨めしくもあり、否、それにも増して、暗い過去ではあつたがどうにか弱い身體と弱い心とを二十三歳の年まで潔《きよ》く支へて來た彼女が、選りも選んで妻子ある男と駈落ちまでしなければならなくなつた呪うても足りない宿命が、彼女にはどんなにか悲しく、身を引き裂きたい程切なかつたことであらう……。
 支那蕎麥屋は家の前のだら/\坂をガタリ/\車を挽いて坂下の方へ下りて行つたが、笛の音だけは鎭まつた空氣を劈《つんざ》いて物哀しげに遙かの遠くから聞えて來た。一瞬間、何んだか北京とか南京とかさうした異郷の夜に、罪業の、さすらひの身を隱して憂念愁怖の思ひに沈んでゐる自分達であるやうにさへ想へて、圭一郎もうら悲しさ、うら寂しさが骨身に沁みた。
「もう寢なさい」と圭一郎は言つた。
「えゝ」
と答へて千登世は縫物を片付け、ピンを拔き髮を解《ほぐ》し、寢卷に着替へようとしたが、圭一郎は彼女の窶《やつ》れた裸姿を見ると今更のやうにぎよつとして急いで眼を瞑《つぶ》つた。
 圭一郎の月給は當分の間は見習ひとして三十五圓だつた。それでは生活を支へることがむづかしいので不足の分は千登世の針仕事で稼ぐことになり「和服御仕立いたします」と書いた長方形の小さなボール紙を階下の路地に面した戸袋に貼りつけた。幸ひ近所の人達が縫物を持つて來てくれたのでどうにか月々は凌《しの》げたが、その代り期日ものなどで追ひ攻められて徹夜しなければならないため、千登世の健康は殆ど臺なしだつた。
「こんなに髮の毛がぬけるのよ」
 千登世は朝髮を梳《す》く時ぬけ毛を束にして涙含み乍ら圭一郎に見せた。事實、彼女の髮は痛々しい程減つて、添へ毛して七三に撫でつけて毳《むくげ》を引き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《む》しられた小鳥の肌のやうな隙間が見えた。圭一郎の心の底から深い憐れさが沁み出して來るのであつたが、彼女の涙も度重なると、時には自分達の存在が根柢から覆へされるやうな憤りさへ覺えた。さう言つて責めてくれるな! と哀訴したいやうな、苦しいのはお互ひさまではないか! と斯う彼女の弱音に荒々しい批難と突つ慳貪《けんどん》
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