冷たいことを仰云つてもお腹の中はさうぢやないと思ひますわ。今に屹度、お子さんが大きくなられたらあなたを訪ねていらつしやるでせうが、わたし其時はどうしようかしら……」
 千登世は思ひ餘つて度々|制《おさ》へきれない嗟《なげ》きを泄《も》らした。と忽ち、幾年の後に成人した子供が訪ねて來る日のことが思はれた。自分のいかめしい監視を逸《のが》れた子供は家ぢゆうのものに甘やかされて放縱そのもので育ち、今に家産も蕩盡し、手に負へない惡漢となつて諸所を漂泊した末、父親を探して來るのではあるまいか。額の隱れるほど髮を伸ばし、薄汚い髯を伸ばし、ボロ/\の外套を羽織り、赤い帶で腰の上へ留めた足首のところがすり切れた一雙のズボンの衣匣《かくし》に兩手を突つ込んだやうな異樣な扮裝でひよつこり玄關先に立たれたら、圭一郎は奈何《どう》しよう。まさか、父親の圭一郎を投げ倒して猿轡《さるぐつわ》をかませ、眼球が飛び出すほど喉吭《のどぶえ》を締めつけるやうなことはしもしないだらうが。彼は氣が銷沈した。
 圭一郎は子供にきつくて優し味に缺けた日のことを端無くも思ひ返さないではゐられなかつた。彼は一面では全く子供と敵對の状態でもあつた。幼少の時から偏頗《へんぱ》な母の愛情の下に育ち不可思議な呪ひの中に互に憎み合つて來た、さうした母性愛を知らない圭一郎が丁年にも達しない時分に二歳年上の妻と有無なく結婚したのは、ただ/\可愛がられたい、優しくして貰ひたいの止み難い求愛の一念からだつた。妻は、豫期通り彼を嬰兒《えいじ》のやうに庇《かば》ひ劬《いた》はつてくれたのだが、しかし、子供が此世に現れて來て妻の腕に抱かれて愛撫されるのを見た時、自分への寵《ちよう》は根こそぎ子供に奪ひ去られたことを知り、彼の寂しさは較ぶるものがなかつた。圭一郎は恚《いか》つて、この侵入者をそつと毒殺してしまはうとまで思ひ詰めたことも一度や二度ではなかつた。
 ――圭一郎が離れ部屋で長い毛絲の針を動かして編物をしてゐる妻の傍に寢ころんで樂しく語り合つてゐると、折からとん/\と廊下を走る音がして子供が遣つて來るのであつた。「母ちやん、何してゐた?」と立ちどまつて詰めるやうに妻を見上げると、持つてゐた枇杷《びは》の實を投げ棄てて、行きなり妻の膝の上にどつかと馬乘りに飛び乘り、そして、きちんとちがへてあつた襟をぐつと開き、毬栗頭《いがぐりあたま》を妻の柔かい胸肌に押しつけて乳房に喰ひついた。さも渇してゐたかの如く、ちやうど犢《こうし》が親牛の乳を貪《むさぼ》る時のやうな亂暴な恰好をしてごく/\と咽喉を鳴らして美味《うま》さうに飮むのだつた。見てゐた彼は妬《ねた》ましさに見震ひした。
「乳はもう飮ますな、お前が痩せるのが眼に立つて見える」
「下《した》がをらんと如何《どう》しても飮まないではきゝません」
「莫迦《ばか》言へ、飮ますから飮むのだ。唐辛しでも乳房へなすりつけて置いてやれ」
「敏ちやん、もうお止しなさんせ、おしまひにしないと父ちやんに叱られる」
 子供はちよいと乳房をはなし、ぢろりと敵意のこもつた斜視を向けて圭一郎を見たが、妻と顏見合せてにつたり笑ひ合ふと又乳房に吸ひついた。目鼻立ちは自分に瓜二つでも、心のうちの卑しさを直ぐに見せるやうな、僞りの多い笑顏だけは妻にそつくりだつた。
「飮ますなと言つたら飮ますな! 一言いつたらそれで諾《き》け!」
 妻は思はず兩手で持つて子供の頭をぐいと向うに突き退けたほど自分の劍幕はひどかつた。子供は眞赤に怒つて妻の胸のあたりを無茶苦茶に掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》つた。圭一郎はかつと逆上《のぼ》せてあばれる子供を遮二無二おつ取つて地べたの上におつぽり出した。
「父ちやんの馬鹿やい、のらくらもの」
「生意氣言ふな」
 彼は机の上の燐寸《マッチ》の箱を子供|目蒐《めが》けて投げつけた。子供も負けん氣になつて自分目蒐けて投げ返した。彼は又投げた。子供も又やり返すと、今度は素早く背を向けて駈け出した。矢庭に圭一郎は庭に飛び下りた。徒跣《はだし》のまゝ追つ駈けて行つて閉まつた枝折戸《しをりど》で行き詰まつた子供を、既事《すんでのこと》で引き捉へようとした途端、妻は身を躍らして自分を抱き留めた。
「何を亂暴なことなさいます! 五つ六つの頑是ない子供相手に!」妻は子供を逸速く抱きかかへると激昂のあまり鼻血をたら/\流してゐる圭一郎を介《かま》ひもせず續けた。「何をまあ、あなたといふ人は、子供にまで悋氣《りんき》をやいて。いゝから幾らでもこんな亂暴をなさい。今にだん/\感情がこじれて來て、たうとうあなたとお母さんとのやうな取返しのつかない睨み合ひの親子になつてしまふから……ね、敏ちやん、泣かんでもいゝ。母さんだけは、母さんだけは、お前を何時迄も何時迄も可愛がつて上げるから、碌でなしの父ちやんなんか何處かへ行つて一生歸つて來んけりやいゝ」
 このやうな憶ひ出も身につまされて哀しく、圭一郎は子供に苛酷だつたいろ/\の場合の過去が如實に心に思ひ返されて、彼は醜い自分といふものが身の置きどころもない程不快だつた。一度根に持つた感情が、それは決して歳月の流れに流されて子供の腦裏から消え去るものとは考へられない。甘んじて報いをうけなければならぬ避けがたい子供の復讐をも彼は覺悟しないわけにはいかなかつた。
 圭一郎は息詰るやうな激しい後悔と恐怖とを新にして魂をゆすぶられるのであつた。そして捕捉しがたい底知れない不安が、どうなることであらう自分達の將來に、また頼りない二人の老い先にまで、染々《しみ/″\》と思ひ及ぼされた。
 同じ思ひは千登世には殊に深かつた。
「わたし達も子供が欲しいわ。ね、お願ひですからあんな不自然なことは止して下さいな」
「…………」
「手足の自由のきく若い間はそれでもいゝけれど、年寄つてから、あなた、どうなさるおつもり? 縋《すが》らう子供のない老い先のことを少しは考へて見て下さい。ほんたうにこんな慘めなこつたらありやしませんよ。とりわけ私達は斯うなつてみれば誰一人として親身のもののない身の上ぢやありませんか。わたし思ふとぞつとするわ」
 千登世は仕上の縫物に火熨斗《ひのし》をかける手を休めて、目顏を嶮しくして圭一郎を詰《なじ》つたが、直ぐ心細さうに萎《しを》れた語氣で言葉を繼いだ。
「でもね、假令《たとへ》、子供が出來たとしても、戸籍のことはどうしたらいゝでせう。わたし、自分の可愛い子供に私生兒なんていふ暗い運命は荷なはせたくないの。それこそ死ぬより辛いことですわ」
 圭一郎は急所をぐつと衝かれ、切なさが胸に悶えて返す言葉に窮した。Y町で二人の戀愛が默つた悲しみの間に萌《きざ》し、やがて拔き差しのならなくなつた時、千登世は、圭一郎が正式に妻と別れる日迄幾年でも待ち續けると言つたのだが、彼は一剋《いつこく》に背水の陣を敷いての上で故郷に鬪ひを挑むからと其場限りの僞りの策略で言葉巧みに彼女を籠絡《ろうらく》した。もちろん圭一郎は千登世を正妻に据ゑるため妻を離縁するなどといふ沒義道《もぎだう》な交渉を渡り合ふ意は毛頭なかつた。偶然か、時に意識的に彼女が觸れようとするY町での堅い約束には手蓋を蔽うて有耶《うや》無耶に葬り去らうとした。ばかりでなく圭一郎は、縱令《よし》、都大路の塵芥箱《ごみばこ》の蓋を一つ/\開けて一粒の飯を拾ひ歩くやうな、うらぶれ果てた生活に面しようと、それは若い間の少時《しばらく》のことで、結局は故郷があり、老いては恃《たの》む子供のあることが何よりの力であり、その羸弱《ひよわ》い子供を妻が温順《おとな》しくして大切に看取り育ててくれさへすればと、妻の心の和平が絶えず祷《いの》られるのだつた。斯うした胸の底の暗い祕密を覗かれる度に、われと不實に思ひ當る度に、彼は愕然として身を縮め、地面に平伏《ひれふ》すやうにして眼瞼を緊めた。うまうまと自分の陋劣《ろうれつ》な術數《たくらみ》に瞞《だま》された不幸な彼女の顏が眞正面に見戍《みまも》つてゐられなかつた。
 圭一郎は、自分に死別した後の千登世の老後を想ふと、篩落《ふるひおと》したくも落せない際限のない哀愁に浸るのだつた。社への往復に電車の窓から見まいとしても眼に這入る小石川橋の袂で、寒空に袷《あはせ》一枚で乳母車を露店にして黄塵を浴びながら大福餅を燒いて客を待つ脊髓の跼《かゞま》つた婆さんを、皺だらけの顏を鏝塗《こてぬ》りに艶裝《めか》しこんで、船頭や、車引や、オワイ屋さんにまで愛嬌をふりまいて其日々々の渡世を凌《しの》ぐらしい婆さんの境涯を、彼は幾度千登世の運命に擬しては身の毛を彌立《よだ》てたことだらう。彼は彼女の先々に涯知れず展《ひろ》がるかもしれない、さびしく此土地に過ごされる不安を愚しく取越して、激しい動搖の沈まらない現在を、何うにも拭ひ去れなかつた。
 圭一郎は電車の中などで水鼻洟《みづばな》を啜つてゐる生氣の衰へ切つて萎びた老婆と向ひ合はすと、身内を疼《うづ》く痛みと同時に焚くが如き憤怒さへ覺えて顏を顰《しか》めて席を立ち、急ぎ隅つこの方へ逃げ隱れるのであつた。
 陽春の訪れと共に狹隘《せゝつこま》しい崖の下も遽《にはか》に活氣づいて來た。大きな斑猫《ぶちねこ》はのそ/\歩き廻つた。澁紙色をした裏の菊作りの爺さんは菊の苗の手入れや施肥に餘念がなかつた。怠けものの配偶《つれあひ》の肥つた婆さんは、これは朝から晩まで鞣革《なめしがは》をコツ/\と小槌で叩いて琴の爪袋を内職に拵《こしら》へてゐる北隣の口達者な婆さんの家の縁先へ扇骨木《かなめ》の生籬《いけがき》をくゞつて來て、麗かな春日をぽか/\と浴び乍ら、信州訛で、やれ福助が、やれ菊五郎が、などと役者の聲色《こわいろ》や身振りを眞似て、賑かな芝居の話しで持切りだつた。何を生業に暮らしてゐるのか周圍の人達にはさつぱり分らない、口數少く控へ目勝な彼等の棲家へ、折々、大屋の醫者の未亡人の一徹な老婢があたり憚《はゞか》らぬ無遠慮な權柄《けんぺい》づくな聲で縫物の催促に呶鳴り込んで來ると、裏の婆さん達は申し合せたやうにぱつたり彈んだ話しを止め、そして聲を潜めて何かこそ/\と囁き合ふのであつた。
 天氣の好い日には崖上から眠りを誘ふやうな物賣りの聲が長閑《のどか》に聞えて來た。「草花や、草花や」が、「ナスの苗、キウリの苗、ヒメユリの苗」といふ聲に變つたかと思ふと瞬《またゝ》く間に、「ドジヨウはよござい、ドジヨウ」に變り、軈《やが》て初夏の新緑をこめた輝かしい爽かな空氣の波が漂うて來て、金魚賣りの聲がそちこちの路地から聞えて來た。その聲を耳にするのも悲しみの一つだ。故郷の村落を縫うてゆるやかに流れる椹野川《ふしのがは》の川畔の草土手に添つて曲り迂《くね》つた白つぽい往還に現れた、H縣の方から山を越えて遣つて來る菅笠を冠つた金魚賣りの、天秤棒《てんびんぼう》を撓《しな》はせながら「金魚ヨーイ、鯉の子……鯉の子、金魚ヨイ」といふ觸れの聲がうら淋しい諧調を奏でて聞えると、村ぢゆうの子供の小さな心臟は躍るのだつた。學校から歸るなり無理強ひにさせられる算術の復習の憶えが惡くて勝ち氣な氣性の妻に叱りつけられた愁ひ顏の子供の、「父ちやん、金魚買うてくれんかよ」といふ可憐な聲が、忍びやかな小さな足音が、三百餘里を距たつたこの崖下の家の窓に聞えるやうな氣がするのであつた。
 いつか梅雨期の蒸々した鬱陶しい日が來た。霧のやうな小雨がじめ/\と時雨《しぐ》れると、何處からともなく蛙のコロ/\と咽喉を鳴らす聲が聞えて來ると、忽然、圭一郎の眼には、都會の一隅のこの崖下の一帶が山間に折り重つた故郷の山村の周圍の青緑にとりかこまれた、賑かな蛙鳴きの群がる蒼い水田と變じるのであつた。さうして今頃は田舍は田植の最中であることが思はれた。昔日の激しい勞働を寄る年波と共に今は止してゐても、父の身神には安息の日は終《つ》ひに見舞はないのである。何十年といふ長い年月の間、雨の日も風の日も、烈しい耕作を助けて父と辛苦艱難を共にして來た、今は薄日も漏れない暗い納屋
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