きおくれ》がし、近くの眞砂町の崖崩れに壓し潰された老人夫婦の無慘《むごたら》しい死と思ひ合はせて、心はむやみに暗くなつた。圭一郎は暫時考へた揚句、涙含《なみだぐ》んでたじろぐ千登世を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して、今は物憂く未練のない煎餅屋の二階を棄て去つたのである。
 崖崩れに壓死するよりも、火焔に燒かれることよりも、如何なる亂暴な運命の力の爲めの支配よりも圭一郎が新しい住處を怖《お》じ畏れたことは、崖上の椎《しひ》の木立にかこまれてG師の會堂の尖塔が見えることなのだ。
 駈落ち當時、圭一郎は毎夜その會堂に呼寄せられて更くるまで千登世との道ならぬ不虔《ふけん》な生活を斷ち切るやうにと、G師から峻烈な説法を喰つた。が、何程|捩込《ねぢこ》んで行つても圭一郎の妄執の醒めさうもないのを看破つたG師の、逃げるものを追ひかけるやうな念は軈《やが》て事切れた。會堂の附近を歩いてゐる時、行く手の向うに墨染の衣《ころも》を着た小柄のG師の端嚴な姿を見つけると、圭一郎はこそ/\逃げかくれた。夜半に眼醒めて言ひやうのない空虚の中に、狐憑《きつねつ》きのやうに髮を蓬々《ぼう/\》と亂した故郷の妻の血走つた怨みがましい顏や、頭部の腫物を切開してY町の病院のベッドの上に横たはつてゐる幼い子供の顏や、倅《せがれ》の不孝にこの一年間にめつきり痩衰へて白髮の殖えたといふ父の顏や、凡て屡※[#二の字点、1−2−22]の妹の便りで知つた古里《ふるさと》の肉親の眼ざしが自分を責めさいなむ時、高い道念にかゞやいた、蒼天の星の如く煌《きら》めくG師の眼光も一緒になつて、自分の心に直入し、迷へる魂の奧底を責め訶《さいな》むのであつた。さうした場合、圭一郎は反撥的にわつ[#「わつ」に傍点]と聲をあげたり、千登世をゆすぶり覺まして何かの話に假託《かこつ》けて苦しみを蹶散《けち》らさうとするやうな卑怯な眞似をした。
 ちやうど、引越しの日に雜誌は校了になり、二三日は閑暇《ひま》なからだになつた。
 夜、膝を突き合せて二人は引越し蕎麥《そば》を食べた。小さな机を茶餉臺《ちやぶだい》代りにして、好物の葱《ねぎ》の韲物《あへもの》を肴に、サイダーの空壜に買つて來た一合の酒を酌み交はし、心ばかりの祝をした。
「大へん心配やら苦勞をかけました。お疲れでございませう」
と彼女は慌《あわたゞ》しく廻る身の轉變に思ひを唆《そゝ》られてか潤んだ聲で言つた。
「いや、貴女こそ……」
と圭一郎は感傷的になつて優しく口の中で呟いた。千登世を慈《いつく》しんでくれてゐる大屋の醫者の未亡人への忘れてはならぬ感謝と同時に、千登世に向つても心の中で手を支へ、項《うなじ》を垂れ、そして寢褥《ねどこ》に入つた。誰に遠慮氣兼ねもない心安さで手足を思ふさま伸ばした。壁は落ち、襖《ふすま》は破れ、寒い透間の風はしん/\と骨を刺すやうに肌身を襲ふにしても、潤んだ銀色の月の光は玻璃《ガラス》窓を洩れて生を誘ふがに峽谷の底にあるやうな廢屋《はいをく》の赤茶けた疊に降りた。四邊は※[#「闃」の「目」に代えて「自」、164−下−17]《しん》と聲をひそめ、犬の遠吠えすら聞えない。ポトリ/\とバケツに落ちる栓のゆるんだ水道の水音に誘はれて、彼は郷里の家の裏山から引いた筧《かけひ》の水を懷しく思ひ出した。圭一郎はいきなり蒲團を辷り出て机に凭掛《よりかゝ》り、父に宛てて一軒の家を持つた悦びを誇りかに葉書にしたゝめたが、直ぐ發作的に破いてしまつた。
「あなた、今朝は、ゆつくりおやすみなさいね」
 明る朝、曉方早く眼ざめた二人は、どうにかして暗處をこゝまで辿りついて來た互ひの胸の中を寢物語りにしてゐたが、間もなく千登世は斯う言つて寢床を離れた。すこし熱の出た圭一郎は組み合せた兩掌で顏を蔽ひ、鈍痛を伴つて冷える後頭部の皿を枕に押しつけてゐると、突如と崖上の會堂から磬石《けいせき》を叩く音が繁く響いて來た。圭一郎はあわてて拇指《おやゆび》で耳孔を塞いだ。が、駄目だ。G師につゞく百人近い學舍に寄宿してゐる帝大生の勤經《ごんぎやう》の聲は押し拂はうとても、鎭まつた朝の空氣をどよもして手に取るやうに意地惡く聞えて來る。彼は忌々《いま/\》しさに舌打ちし、自棄《やけ》くそな捨鉢の氣持で空嘯《そらうそぶ》くやうにわざと口笛で拍子を合はせ、足で音頭をとつてゐた。が、何時しか眼を瞑《つぶ》つてしまつた。「愛欲之中《アイヨクシチユウ》。……窈窈冥冥《ヤウヤウミヤウミヤウ》。別離久長《ベチリクチヤウ》」嘗《か》つて學舍でG師に教はつて切れ/″\に諧《そら》んじてゐる經文が聞えると、心の騷擾《さうぜう》は彌増《いやま》した。「顛倒上下《テンダウジヤウゲ》。……迭相顧戀《テチソウコレン》。窮日卒歳《グニチソチサイ》……愚惑所覆《グワクシヨブ》」――暫らくすると、圭一郎は被衾《よぎ》の襟に顏を埋め兩方の拳を顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にあて、お勝手で朝餉《あさげ》の支度をしてゐる千登世に聞えぬやう聲を噛み緊めてしくり/\哭《な》いてゐた。彼は奮然として起き直り、薄い敷蒲團の上にかしこまつて兩手を膝の上に揃え、なにがなし負けまいと下腹に力を罩《こ》めて反衝《はねか》へすやうな身構へをした。
 さうした毎朝が、火の鞭を打ちつけられるやうな毎朝が、來る日も來る日もつゞいた。が、圭一郎もだん/\それに馴れて横着になつては行つた。
 G師は、ともかく一應別居して二人ともG師の信念を徹底的に聽き、その上で、うはずつた末梢的な興奮からでなしに、眞に即《つ》く縁のものなら即き、離る縁のものなら[#「ものなら」は底本では「ものなる」と誤記]離るべしといふのであつたが、しかし、長く尾を引くに違ひない後に殘る悔いを恐れる餘裕よりも、二人の一日の生活は迫りに迫つてゐたのである。父の預金帳から盜んで來た金の盡きる日を眼近に控えて、溺れる者の實に一本の藁を掴む氣持で、圭一郎は一人の※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]縁《つて》もない廣い都會を職業を探して歩いた。故郷に援助を求めることも男のいつぱしで出來ないのだ。彼は一切の矜《ほこ》りを棄ててゐた。社會局の同潤會へ泣きついて本所横網の燒跡に建てられた怪しげなバラックの印刷所に見習職工の口を貰つたが、三日の後には解雇された。彼は氣を取り直して軒先にぶら下つてゐる「小僧入用」のボール紙にも、心引かれる思ひで朝から晩まで街から街を歩いた。上野の市設職業紹介所には降る日も缺かさず通つて行つて、そして、迫り來る饑《ひも》じさにグウ/\鳴る腹の蟲を耐へて澁面つくつた若者や、腰掛の上に仰向けになつてゐる眼窩《がんくわ》の落窪んだ骸骨のやうなよぼ/\の老人や、腕組みして仔細らしく考へ込んでゐる凋《しぼ》んだ青瓢箪《あをべうたん》のやうな小僧や、さうした人達の中に加つて彼は控所のベンチに身を憩《やす》ませた。みんなが皆な、大きな聲一つ出せないほど窶《やつ》れて干乾びてゐる。と中に、セルの袴を穿いて俺は失業者ではないぞと言はぬ顏に威張り散らし、係員に横柄な口を利く角帽の學生を見たりすると、初めの間はその學生同樣に袴など穿いて方々の職業紹介所を覗いてゐた時のケチ臭い自分の姿を新に喚起して圭一郎は恥づかしさに身内の汗の冷たくなるのを覺えた。横手のガードの下で帽子に白筋を卷いた工夫長に指圖されて重い鐵管を焦げるやうな烈日の下にえんさこらさ[#「えんさこらさ」に傍点]と掛聲して運んでゐる五六人の人夫を彼は半ば放心して視遣つてゐた。仕事に有付いてゐるといふことだけで、その人夫達がこの上もなく羨望されて。又次の日には千登世と二人で造花や袋物の賃仕事を見つけようと芝や青山の方まで駈け廻つて、結局は失望して、さうして濕つぽい夜更けの風の吹いて來る暗い濠端《ほりばた》の客の少い電車の中に互ひの肩と肩とを凭《もた》せ合つて引つ返して來るのであつた。
 斯うして酒新聞社に帶封書きに傭はれた時分は、月半ばに餘す金は電車賃しかなかつた。その頃、ルバシュカを着た、頭に禿のある豆蔓《まめづる》のやうに脊丈のひよろ/\した中年の彫塑家《てうそか》が編輯してゐた。ルバシュカは三日にあげず「奧さん、五十錢貸して貰へませんか」と人の手前も憚らないほど、その男も貧乏だつた。それでもそのルバシュカは、長い腕を遠くから持つて來て環を描きながらゴールデンバットだけは燻《くゆら》してゐた。その強烈な香りが梯子段とつつきの三疊の圭一郎の室へ、次の間の編輯室から風に送られて漂うて來ると、彼は怺《こら》へ難い陋《さも》しい嗜慾に煽《あふ》り立てられた。圭一郎は片時も離せない煙草が幾日も喫めないのである。腦がぼんやりし、ガン/\幻惑的な耳鳴りがし、眩暉《めまひ》を催して來ておのづと手に持つたペンが辷り落ちるのだつた。彼は堪りかねて、さりげなくルバシュカに近寄つて行き、彼の吐き出すバットの煙を鼻の穴を膨らまして吸ひ取つては渇を癒《いや》した。
 ルバシュカが晝食の折階下へ降りた間を見計つて、彼は、編輯室に鼠のやうにする/\と走つて行つて、敏捷《はしこ》くルバシュカのバットの吸さしを盜んだ。次の日も同じ隙間を覗つて吸さしのコソ泥を働いた。ルバシュカは爪楊枝《つまやうじ》を使ひながら座に戻ると煙草盆を覗いて、
「怪《け》つたいだなあ、吸さしがみんななくなる、誰かさらへるのかな。」
と呟いて怪訝《けげん》さうに首を傾げた。人の良いルバシュカは別に圭一郎を疑ぐる風もなかつたが、圭一郎は言ひあらはし難い淺間しさ、賤劣の性の疚《やま》しさを覺えて、耳まで火のやうに眞赤になり、背筋や腋の下にぢり/\と膏汗《あぶらあせ》が流れた。
 數日の後、ルバシュカは無心が度重なるといふので、二人の子供と臨月の妻とを抱へてゐる身の上で馘首《くわくしゆ》になり、圭一郎は後釜へ据ゑられた。
 ……………………
 圭一郎は、崖下の家に移つて來た頃から、今度の雜誌社では給料の外に、長い談話原稿を社長の骨折りで他の大雜誌へ賣つて貰つたり、千登世は裁縫を懸命に稼いだりして、煙草錢くらゐには事缺かないのである。彼は道ゆくにも眼を蚊の眼のやうに細めてバットの甘い匂ひに舌を爛《たゞ》らして贅澤に嗅ぎ乍ら歩くのである。電車に乘らうとして、火のついてゐるバットを捨て兼ね、一臺でも二臺でも電車をおくらして吸ひ切るまでは街上に立ちつくしてゐるのであつたが、急ぎの時など、まだ半分も吸はないのに惜氣もなくアスファルトの上に叩きつけることもあつた。さうした場合、熱き涙を岩石の面にもそゝぎ――と言つた、思慕渇仰に燃えた狂信的な古の修行人の敬虔なる衝動とは異つた吝嗇《りんしよく》な心からではあるけれども、圭一郎は、吸さしのバットの上に熱い涙を、一滴、二滴、はふり落すこともあるのであつた。
 寄越す手紙寄越す手紙で郷里の家に起るごた/\の委細を書き送つて圭一郎を苦しめぬいた妹は、海軍士官である良人が遠洋航海から歸つて來るなり、即刻佐世保の軍港へ赴いた。圭一郎は救はれた思ひで吻《ほつ》とした。けれども彼はY町の赤十字病院に入院してゐるといふ子供の容態の音沙汰に接し得られないことを憾《うら》みにした。いよ/\頭部の惡性な腫物の手術を近く施すといふ妹の最後の便りを、その頃まだ以前の勤先である靈岸島濱町の酒新聞社に通つてゐた一月の月始めに受取つて以降、彼はある不吉な終局を待受けて見たりする心配に絶えず氣を取亂した。圭一郎は割引電車に乘つて行つて、社の扉のまだ開かれない二十分三十分の間を永代橋の上に立ち盡して、時を消すのが毎朝の定りだつた。流れに棹《さをさ》して溯《さかのぼ》る船や、それから渦卷く流れに乘つて曳船に曳かれ水沫《しぶき》を飛ばし乍ら矢の如く下つて行く船を、彼は欄干に顎を靠《もた》し、元氣のない消え入るやうにうち沈んだ心地で、半眼を開いた眼を凝乎《ぢつ》と笹の葉ほどに小さく幽かになつて行く同じ船の上に何處までも置いてゐるのであつたが、誰かの足音か聲かに覺まされたもののやうに偶《ふ》と正氣づいて俄《にはか》に顏を擡《
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