の中に寢そべつて徒《いたづ》らに死を待つやうにして餘生を送つてゐる老年の運命にも、圭一郎は不愍《ふびん》な思ひを寄せた。
 鼠色のきたない雨漏りの條《すぢ》のいくつもついてゐる部屋の壁には、去年の大晦日《おほみそか》の晩に一高前の古本屋で買ひ求めた、ラファエル前派の代表作者バアーンジョンの「音樂」が深い埃を被て緑色の長紐で掛けてあつた。正面の石垣に遮られる太陽が一日に一回明り窓からぎら/\と射し込んだ。そして、額縁に嵌《は》められた版畫の中の、薔薇色の美しい夕映えに染められた湖水や小山や城に臨んだ古風な室でヴァイオリンを靜かに奏でてゐる二人の尼僧を、黒衣の尼さんと、それから裾を引きずる緋の襠《うち》かけを纒うた尼さんの衣を滴《したゝ》る燦《あざや》かな眞紅に燃え立たせた。圭一郎は溢れるやうな醉ひ心地でその版畫を恍惚と眺めて呼吸をはずませ倚《よ》り縋《すが》るやうにして獲がたい慰めを願ひ求めた。現世の醜惡を外に人生よりも尊い蠱惑《こわく》の藝術に充足の愛をさゝげて一すぢに信を獲る優れた悦びに心を驅つて見ても、明日に、前途に、待望むべき何《ど》れ程の光明と安住とがあるだらう? とどのつまり
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