ませんよ。とりわけ私達は斯うなつてみれば誰一人として親身のもののない身の上ぢやありませんか。わたし思ふとぞつとするわ」
千登世は仕上の縫物に火熨斗《ひのし》をかける手を休めて、目顏を嶮しくして圭一郎を詰《なじ》つたが、直ぐ心細さうに萎《しを》れた語氣で言葉を繼いだ。
「でもね、假令《たとへ》、子供が出來たとしても、戸籍のことはどうしたらいゝでせう。わたし、自分の可愛い子供に私生兒なんていふ暗い運命は荷なはせたくないの。それこそ死ぬより辛いことですわ」
圭一郎は急所をぐつと衝かれ、切なさが胸に悶えて返す言葉に窮した。Y町で二人の戀愛が默つた悲しみの間に萌《きざ》し、やがて拔き差しのならなくなつた時、千登世は、圭一郎が正式に妻と別れる日迄幾年でも待ち續けると言つたのだが、彼は一剋《いつこく》に背水の陣を敷いての上で故郷に鬪ひを挑むからと其場限りの僞りの策略で言葉巧みに彼女を籠絡《ろうらく》した。もちろん圭一郎は千登世を正妻に据ゑるため妻を離縁するなどといふ沒義道《もぎだう》な交渉を渡り合ふ意は毛頭なかつた。偶然か、時に意識的に彼女が觸れようとするY町での堅い約束には手蓋を蔽うて有耶《う
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